喫茶Honfleur掲示板 2007〜2009年

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Message#24848 2009年7月30日(木)22時48分
From: 篠澤教授に三千点
変更
Jさんから、キターーーーーーーーーッ!
Jさんから元芝さんへの返信です。

以下に転載します。


______________________________________


 ご返信


 私の主張は、「ヨーガ根本経典(佐保田鶴治、大阪大名誉教授、故人)」などの文献によっています。佐保田氏は、日本のヨーガ研究の草分けで、ヨーガ経典の原典にもあたっていますから、信頼できると解釈しました。

 さて、ご指摘の中で、まず、誤解されていると思うことがあります。それは、私の主張は、「三グナに、仏教的な意味での自性がある」という意味ではなく、上記の佐保田氏らの文献において、実際に、この世を構成する根本として、三グナによって構成される「自性」というものがある(この自性は、文脈から見て、いわゆるプラクリティの訳と思われる)、と記載されていることなどに基づいています。

 そして、佐保田氏の見解も、私の話も、仏教の世界観の話しではありません。それは、ヒンズー・ヨーガ、そして、その源としては、インド古代哲学のサーンキャ学派のサーンキャ二元論の思想です。

 仏教では、特に大乗仏教では、一切は無自性と説きますから、ヨーガの概念の三グナを無自性というのは当然の見解です。しかし、そもそも仏教には、三グナの理論自体がないでしょうから、「三グナは無自性」とする仏典もないと思います。

 よって、一般的に、ヨーガの文脈において、(佐保田氏らの見解・表現とは異なり)、三グナ=無自性とする文献があるのかに関心があります。そういった経典がない場合は、「三グナを(仏教的な意味での)無自性である」と言うこと自体が、ある意味で、オウムの「仏教とヨーガの合体」と似た世界であり、それを避けるならば、問題が解決すると思います。

 さて、私が知る限りでは、三グナというのは、(当然仏教の概念ではなく)そもそもが、サーンキャ学派と呼ばれるインド古代哲学思想の一派の概念であって、その哲学思想であるサーンキャ二元論の中に出てくるものとしてとらえています。

 そして、佐保田氏の文献(上記、39〜43p)におけるサーンキャ思想の解説では、三グナで構成される自性なるものは、宇宙の創造以前からあり、真我に出会って、真我のために、万物を展開したとしています。

 なお、佐保田氏から離れて、より一般的に言えば、サーンキャ二元論は、精神的な根本のプルシャ(真我)と、物質的な根本であるプラクリティ(精神原質、佐保田訳では自性)があるとする思想で、@佐保田氏のように、プラクリティのあり方を積極的に位置づけたもの(解釈によっては、プルシャ・真我よりも優位とも感じられる)や、Aそうではなく、プルシャがプラクリティを観察すると、プラクリティが変化したという思想(参考文献・ウキペディア)があるのではないか、と思います。


> 三グナは無自性って上祐に伝えてあげて。

 →この点は、上記の通り、佐保田氏の著作や、そもそも、自性の意味をどう定義するかという点を含め、よろしくご検討下さい


> 自性とは仏教ジャーゴン(専門用語)で自分自身で「活動性」を有するもの。

「自分自身で活動性を有するもの」という解釈は、私の知識では(間違っているとは言えませんが)少なくとも、一般的ではないと思います(岩波仏教辞典などを参考にしております)。

 ただし、この場合でも、佐保田氏的な三グナ・プラクリティの解釈であれば、それは、正に自ら活動性を有している存在と位置づけられていますので、自性を有するという結論になります。

> 自分以外の他の存在に依存・従属せずに「存在」つまりそれ自体に「オ−ナ−性があるもの」ということであり、

 この自性の定義は、仏教用語として、一般的なものだと思います。しかし、この定義の場合であれば、佐保田氏ほど三グナに能動性を認めずに、三グナ=プラクリティは、プルシャに観察されて形態が変化するという、ウキペディア的な解釈であっても、三グナ・プラクリティに、自性があるという解釈になると思います。

 というのは、サーンキャ二元論の主旨として、プラクリティが、プルシャと共に、この世の根源であり、プラクリティが、プルシャを含めた何か他のものに依存して存在するもの、とは言えない、と考えられること。さらには、時間軸から見ても、、プラクリティは、無始の過去から未来永劫まで存在していたとしていると解釈でき、確かに、形態は変化はするけれども、ある時点で全く滅したり、ある時点から突然生まれたりはしないとされていることなどがあるからです。

 これを言い換えれば、プラクリティ=三グナが自性があるかないか、という点は、自性という言葉の意味によると表現することも出来ます。

 仮に、無始の過去から未来永劫存在しても、形態が変化するだけで、無自性であると規定するならば、三グナ・プラクリティは無自性でしょうが、それは、仏教での無自性の定義としては、どうかなと思います。

 仏教は、真我の存在を認めませんし、この世の一切は相互依存であって、根本原理があることを認めず、大乗仏教の空も、唯識思想の阿羅耶識も、根本原理のような概念ではあるが、この世が無くなったら、空も阿羅耶識も滅するものとされています。
 
 よって、この世の創造と消滅を超えて、その前にも後にも存在する、ヨーガの説くプルシャやプラクリティといった存在が仮にあるとすれば、仏教的な言葉の使い方では、それは、自性を有するものと解釈されるのではないでしょうか。


> 本来仏教では自性は「我」のことを指します。
> なので三グナは無自性。

 仏教で、自性と我(アートマン)がほぼ同意義の言葉であることには同意します。しかし、仏教ではなくて、ヨーガ・サーンキャの世界の概念である三グナが、無自性であるとするためには、上記の通りの反論がありますから、それに対する反証が必要だと思います。

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