아벨(Abel)さんのメッセージ(#31625)への返事 > 比喩の対象として、恒星とか電球をイメージしてるわけですから、受動的に他の光に照ら > されて影を生じる存在とは違って、発光体それ自身に内面の闇なんて内在しませんよ。 > はい。 では発光しているのは本当に自身なのですか? 本当に自身が発光している? それはどうやって証明されますか? そして、光も闇も自身ではなく「自分自身」だと信じているもの、これがヨーガや仏教が言っていることなのでは? だからこそ光が闇を濃くし結果両方に強く巻き込まれるのでは? 自身を「発光体」だと捉えるならばそうでない「闇」も同時に定義され、発光体であるがゆえに「自身が生じさせたもの」である「闇」もまた自分の一部となってしまいます。これはいかが? 発光体であるがゆえにその反対の極である「闇」は必ず対であるから。 つまり、「自身が発光体」であろうとその時生じる自身が照らし出したものは自身の一部に過ぎません。そして照らし出したが故に生じる闇もまた自分の一部です。 発光することが無かったら・・・その時は闇は我々自身なのだし。 闇とは単純に「光が無い」という現象なのですから。 > 上で断定的に仰ったことは、元芝さんご自身のご修行体験から、人間の心の性質について > 述べられたことだと思いますから、心というものはそういう面があるのかもしれないな、って > 気には確かになりますが、それが普遍的な性質なのかどうかについては私には判断のすべ > がありません。 最近は軽い言葉になってしまったので使いたくありませんが「一元」ということを考えると「光」かならず「闇」と対である。「一元」は「光でも闇でもないもの(二元を越えたもの。あるいはそれを包含した混合体にして越えたもの)」だから光は「二元」に属するものだとは理論的に推察できます。これはこの世においては普遍的です。逆の闇もそうです。 そして、心(マインド」というものは「この世そのもの」と言い表してもいいものです。 心がこの世を作っているから。 つまり、光も闇も「心の中にあるからそれは存在する」のです。 光だけの世界では光は意味を失います。対比する闇が無いから。 闇だけの世界では光は意味を失います。対比する光が無いから。 光と闇とは「この心の世界では必ずセットです」 お互いがいないと存在できないから。 空の理論から考えても目の前の諸現象は全て我らの心の中の諸現象です。 故に、心の中には光も闇も存在します。 これらのことから「発光しているもの」は別に存在していてそれは我々自身ではない。 「発光しているもの」が「存在」している以上「闇」もまた存在する。 光が強くなれば闇もまた濃くなる。 これらはこの世においては普遍的。ならば「心の中においても普遍的」な現象。 それらを「自身」だと勘違いしているのが「我々」だと。 「光」も「闇」も見つめている存在(あるいは非存在)がそこにあります。 何故ならばアベルさんが仰るとおり自身が「発光体」なら闇は内部には無いことになります。 それならば「闇」はこの世に存在しない。・・・ことになる。これは我々の見ている世界には有り得ない現象です。 光も闇もある。それは取りも直さず我々の心には「光も闇もある」ことを意味します。 なので、光を強める=闇を濃くする。となるわけです。 光にも闇にも執着しない。 これが肝要、と言うのは以上のことからです。 光に執着すれば闇を濃くする。 闇に拘泥すれば光に焼かれる。 功徳を積んでもそれに何かを期待しない(執着しない) 悪業はなるべく積まない(悪徳の味に酔わない) これが中道だと思います。 これは瞑想体験ではなくて思考のみの話です。 |