![]() YASUさんのメッセージ(#32140)への返事 > 「無明」と「明」、わたしは未だに分かりませんです。 > これが分かっていたら、成就者というか涅槃に入る者が続出しそうですけど。 そうなって来るでしょうね。 これらが明確になれば、解脱とは「何なのか」がはっきりと見えて来ますから… それが何かも解らずに、そうなろうとしても、そんなのは無理でしょ? > 教団では、「無明」=「非神秘力」となっていましたね。 これも、一つの捉え方としては、正しいと言えなくも無いんだけど、 果たして本当に「正しく」捉えていたのかどうかは、ちょっと疑問ですね… (おそらく、神通力と関連づけて無明を捉えていたのだと思いますけど) > ところで、 > http://blog.goo.ne.jp/waikei2008/e/9d3a42ef99696521488a182a893695fa > > 「渇愛」城にエネルギーならぬ食料などを供給していたのが、 > 「無明」という霧に絶えず包まれた大きな町だとか。 > > 「霧」は分かりますが、「大きな」という例えは何でしょうか? 離解脱(明に至る)には、心解脱と慧解脱の二種類があります。 簡単に説明をすると、欲望(渇愛・妄執)からの離脱が「心解脱」です。 そして、識別(分別思考・比較類推思考など)からの離脱が「慧解脱」なのです。 そして、この欲望も識別も、それぞれ無明によって支えられて生起し続けています。 ですから、「無明」と呼ばれる領域とは、実はかなり広いものなのです。 欲望を支える無明とは、その欲望(欲求)を支えるモチベーションを生み出す、 「固定化してしまった認識パターン(観念)」が、そのほとんどです。 「それは楽しい」「それは好ましい」「それは俺のものだ(俺には必要だ)」…などなど。 それが、楽しくて、好ましくて、自分のものにできる、それが必要だ、と思っているから、 対象への欲求が止めどもなく溢れ出してしまい、そのまま暴走してしまうのです。 「一切皆苦」は、その「固定化した認識パターン(観念)」を直接破壊する、 とてもシンプルで強力な見解であり、観想法(イメージ・トレーニング法)なのです。 (破壊し終えたら、その見解は「筏(いかだ)」のように捨て去るのです) 心解脱は、四念処(五蘊無我)を実践して七覚支のプロセスを進むという方法、 つまり「四禅定の実践」が、釈尊の説いた修行では順を追った正規の方法なんですね。 これに対して「色界・無色界の瞑想」、つまり四大・四元素の瞑想と四無色定とが、 慧解脱(世界を形成する固定観念からの離脱)に至るための瞑想修行なんです。 世界を形成する固定観念 … これを一つの言葉で表現すると「想い」になります。 (釈尊は「小空経」で、想いからの解脱を説いているのです) 四大 … 色(物質)を構成する四つの基本的な観念 空無辺 … 空間という観念の心象(内的)世界 識無辺 … 時間という観念の心象(内的)世界 無所有処 … 「無」という観念の心象(内的)世界 非想非非想処 … 想い(観念)そのものが未分化の状態 外的な現象世界は、四大(元素)と空間と時間という「有」と、 その正反対の「無」という観念によって、私たちの心の中に「再構成」されているのです。 つまり観念(無明)にも「理的なもの」と「情的なもの」があって、 「理的なもの」は思考・分別作用に影響を与え、 「情的なもの」は情動作用に影響を与えているのです。 ですから、無明とは、色々な言葉(表現)に置き換えることが可能なのです。 固定観念・囚われ・反射作用(パターン認識)・定義・見解・蓄えられた盲目的な知識… ですからこれは、その人の「世界観」と言い換えることも可能なのて、「大きな」と表現しているのです。 |