櫻京さんのメッセージ(#32615)への返事 > >大日如来との一体感、つまり永遠の生命との一体感に関わる作法 > > っていうことなんです…よね?? これってオウム思考の典型例の一つだと思うのですが、 「総論」を取り出してきて、オウム流の解釈を施す、 ということを見事にやってくれていますね。 こんな抽象的な総論からオウムの人が想像できることといえば、 非常に限られています。 オウムの考え方は概ねチベットをもとにしているようですから、 クリアライトに導く、・・・いわば「死者へのポワ」を行う、 という行為であると解釈できると思います。 で、「死者に対して行うべきはポワである」という解答を唯一とし、 ポワを行わない葬儀に対しては批判的な目を自動的に向けてしまう・・・。 これは、明らかにオウム発想です。 > これ、もし成功してたら、10万とか100万とかじゃ、全然安いですよね。 安いどころか、金銭による価値のつけように困ります。(笑) > ただ、成功しているか否か、作法をされた方ご自身が確認って、できるのかな〜…、 > という疑問が、ふと沸いた次第です。日本仏教の批判とかじゃないです。 残念ながら、その疑問自体が批判になっています。 つまり、葬儀自体を「ポワ」と位置づけて考えてしまっている時点で、 当然のようにその疑問は出てくると思います。 しかし、その疑問のあり方自体は、やはり批判になるでしょう。 では、真言宗の葬儀は何なのか、と言われたら、 本来通夜に行うべき「出家授戒作法」、 葬儀において行うべき「潅頂作法」と「撥遣作法」です。 導師の弟子として在家であった死者を得度、出家者にし、 潅頂を授け(オウムでいうイニシエーション、アビシェーカです)、 あの世の旅に送り出す、という作法です。 潅頂の中で、破地獄の印と真言を授けますが、 (地獄に落ちても、地獄の門を壊して逃げられるように) 転生に直接関わるようなことはそのくらいで、 後は本尊たる不動明王にお任せして、 修行者として旅立っていくお見送りをする、 導師の役割は、葬儀としてはそこまでです。 その後の七日ごとの法要も、 追善、つまり功徳を追い足してあげるためのものであり、 それはオウムで言うグルによる弁護、というよりはむしろ、 弁護士に有利な証拠を渡す作業、という程度のもので、 僧侶が死者の転生を直接操ったりするわけではありません。 中にはその結果を確認できる能力のある人もいるでしょうが、 普通、そんな能力はありません。 それは、真言宗の導師に求められる役割の範疇外です。 |