> つまり、輪っかの指導員というのは、 > 概ねこの条件に当てはまる人物なわけでしてね。 自分が見た感じ、指導員のほうはよく知らないが残ってる信徒は忍耐力あるかなと思います。いろんな試練を通過してますからねー。例外もあるでしょうけど ひかりは抽象的だが、まずは安全第一なんでしょう。教義を吟味してから実践に入る原始仏教の姿勢とか、Aではなぜか封印された本来的な面を強調する それはさておき。物を考えろというメセヂが指導員にじゅうぶん伝わらない感じではあって、まだタテ構造を緩和するほど主体性が持てないか。上祐氏は悟りに必要なデータをすべて話したと思われる。たとえばカルマ論の真義、1元、自我の相対化 でも3冊本が出てるから読んでみて内観を初め、思った以上に反省作業は難航したらしい様子がうかゞえた さて仏教のヒナヤーナとマハーヤーナは哲学のショーペンハウエルとニーチェの違いに対応する。仏教は哲学でほとんど代替できます とはいえ、上祐氏いわく仏教には実践や神仏などが付いてるわけで 哲学でどこまでいけるかが自分のテーマ。 21 世紀に入ってずいぶん、智恵(初歩の悟り、メタ認知)を体験するヒトが増えました ぼくの場合は 2000 年辺りから手こずりながら進んでますが。近ごろはおもしろいことに気づいた。現象学のアポリア(なぞ)として相互主観性があります。一人ずつの精神は閉じてるのになぜか、現実を共有するというなぞ ライプニッツの予定調和説には無理がある http://d.hatena.ne.jp/keyword/予定調和 もっとシンプルな解決は以下のとおり。何らかの対象がAさんのイメヂ(内部)で、Bさんのイメヂでもあるとすれば両者はディープな無意識レヴェルでつながってるはずだ これってアートマン‐ブラフマンの関係? 前に書いたφとΦです Φを神とするならぼくら自身(買モ)が神。おそろしくシンプルな論理なので知人に確認中、同じ主張は古くからあるに違いない たぶんΦを出発点にしたドイツ観念論の失敗は、φから始めることで回避できる 仏教徒のいう無我は正しいがアートマンは絶対ぢゃないにしろ実在はしますね。真我論も正しい、両者それなりに固有のメリトある 1元を智る前に多元というわけです |