http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/111113/crm11111301500000-n1.htm 【16年目の結審 オウム裁判】 (3) 今も信者「再来」の不安 富士ケ嶺オウム対策委員会の元代表理事、竹内精一さん 2011.11.13 01:48 山梨県上九一色(かみくいしき)村。平成18年に甲府市と富士河口湖町に分割編入された。 富士山を望む自然豊かな村にオウム真理教が進出したのは22年前。教団は「サティアン」と呼ばれる建築物など、最盛期で30を超える施設を建築。勝手な振る舞いをし、住民と激しいトラブルとなった。 多くのサティアンがあった富士ケ嶺地区は静けさを取り戻している。過去の騒動を伝えるのは、公園として整備された跡地にある約1メートルの高さの「慰霊碑」だけだ。 だが、オウムと縁が切れたわけではない。 地域の教団対策委員会で代表委員などを務めた竹内精一さん(83)は今春、元オウム信者で、現在は教団の流れをくむ団体「アレフ」の荒木浩幹部(43)と、信者らしき約15人の男女を「第6サティアン」跡地で見かけた。 一連の事件の首謀者、麻原彰晃(本名・松本智津夫)死刑囚は逮捕当時、この場所に隠し部屋を作り、潜んでいた。 荒木氏とはここで、教団が村から退去した8年11月、2人きりで約30分間話し合ったことがある。「人の道として、謝罪しないといけないぞ」。そう、諭した竹内さんに、彼は「個人としては(謝罪)しないといけないが、教団としては…」と曖昧な返事しかしなかった。 あれから15年。「何をやってるんだ! 早く辞めた方がいいぞ」。声をかけると、苦笑いを浮かべながら黙ったままだった。 呪縛が解けない彼らの姿に、竹内さんは複雑だ。 竹内さんが教団と激しく対峙したのは、教団退去までの6年あまり。「人生の中で最も“濃密”な時期だった。地域を守らなければという強い思いが自分を支えた」 教団が村に進出を始めたのは平成元年。教団は村民が気付かぬうちに土地を取得していた。突然、高さ約3メートルの金属塀が立った。 説明を求めようにも、信者らはカメラを構え、車のナンバーを控える。何を言っても取り合わない。門前の信者は竹刀で自分の足をたたいている。「エネルギーを発散するため」という主張も理解を超えていた。 対策委は監視小屋を設置。サティアンに通じる道路にコンクリートブロックを置き、工事用トラックの進入を防いだ。信者の出入りもチェックした。 「少しでも怖さを感じたら足が止まってしまうと思っていた」。当時の恐怖をこう振り返る。自宅から盗聴器が発見されるなど、嫌がらせも相次いだ。 竹内さんは一連の教団事件の裁判を傍聴はしていない。「裁判は信者個々人の罪に対してのものでしかない。教団全体の問題としてとらえる場ではないと思ったから」と話す。 なぜ、教団が上九一色村に進出したのか。竹内さんには疑問が残る。「富士山という信仰の象徴のほかに、警察の目が届きにくい県境で、土地が安かったからなのか」 公判の途中で検察側が、村の教団施設が舞台となった覚醒剤・麻薬密造事件について起訴を取り消した(平成12年)ため、教団の施設建設過程について裁判で明らかにされることはなかった。 教団関係者がいまなお、サティアン跡地を訪れるという現実を前に竹内さんは思う。「再び同じような教団が生まれ、歴史が繰り返されはしないだろうか」(川畑仁志) ◇ サティアンとオウムの拠点 サンスクリット語で「真理」を意味する言葉で、オウム真理教が教団施設をそう呼んだ。旧上九一色村を中心に富士山周辺には、麻原彰晃死刑囚の住居や、サリンや自動小銃などの製造施設、信者の修行・生活施設などがあった。 教団の施設は北海道から沖縄まで20以上。東京都心では青山、亀戸などに拠点があった。教団は最盛期の平成7年当時、出家約1500人、在家約1万4千人の信者がいたとされる。 信者らは現在、主流派のアレフ(東京・杉並)と、ひかりの輪(同・世田谷)に所属公、都内でも住民が反対運動を続けている。安調査庁によると、信者は計約1500人(うち出家者約500人)。 |