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Message#41198 2010年12月22日(水)03時33分
From: 아벨(Abel)
突然ですが
 ところで、今日の話は皆さんにこのような原則的な話ではなく、少し高度な智慧のある話をしたいと考えている。したがって今日のこの話はこの信徒の中でも理解できない人がほとんどかもしれないが、わたしとしては法則を残さなければならない立場にあるから、皆さんに特別な法則の伝授をしたいと思う。それは何かというと、ヒナヤーナ、マハーヤーナ、タントラ・ヴァジラヤーナにおけるものの考え方の違いである。
 もともとヒナヤーナのものの考え方というのは、先程も述べた離愛著、現象から離れることをポイントとする。この現象から離れることによって、カルマの悪業から来る苦しみというものを経験しなくてすむ状況を作り上げると。そして、もともと本来持っているわたしたちの真我の特性によって解脱をするという方法である。
 第二のパターンはマハーヤーナ的な方法である。このマハーヤーナの方法は、もともと、この世界の構成要累を考え、そして善行や徳行を行なうことにより高い生命体へと至ると。高い生命体へと至ることにより智慧を磨くことが容易となり、そして高い智慧を有するようになると。高い智慧を有するようになることによって、よりいっそう現象に対する理解が強まり、そして解脱するという道である。
 第三番目はタントラ・ヴァジラヤーナの方法である。タントラ・ヴァジラヤーナの方法とは何かというと、この宇宙の構成要素とはこうである、人間の本質的な功徳と呼ばれるものは原理的にこうである、ということをはっきりと提示を受け、その提示によって真理とはこうだという実践をする修行である。
 まず「財」について考えてみよう。ヒナヤーナにおける財の考え方は、離愛著ゆえに放棄である。放棄とは何かというと、財を持たない、そして財を持つことによる貪りの生起等を徹底的に捨断する実践である。これがヒナヤーナにおける財の考え方である。
 ではマハーヤーナにおける財の考え方はどうかと。マハーヤーナにおける財の考え方は二つある。ひとつは自分か功徳を積まなければならないから、一生懸命財を集め、財を稼ぎ、そしてそれを布施するという道である。第二は、例えば財で困っていて、そして真理の実践できない人に対して、それを恵み与えるという方法である。これがマハーヤーナの財の考え方である。財とは財産の財ね。
 では、タントラ・ヴァジラヤーナにおける財の考え方とはどうであろうかと。これはラトナサンバヴァの法則と呼ばれる法則がある。ラトナサンバヴァの法則とは何かというと、もともと財というものは個人に帰納するものではない、帰納とは個人がそれを所有する、そしてこれはわたしものであると呼ばれるものではない、と断定する。なぜ断定できるのかと。それは死ぬとき持っていけないではないかと。あるいは無常を根本とし、増減するではないかと。あるいは悪業をなした人も一時的に財を多く得ることができるじゃないかと。あるいは死ぬまで財を多く得ることができるじゃないかと。したがって、財というものは善でもなく悪でもなく、しかもそれは個人に帰納されるものではないんだと考える道である。ではこれに対して、ラトナサンバヴァつまり、黄色い真理勝者方はどうお説きになるのかと。財は善、あるいは徳のために使うべきであると。財は悪のためにあるいは不善不悪のために、つまり善でも悪でもないもののために使うべきではないと。そして、善・徳のために、もし財を使うことができるとするならば、それは盗み取ってもいいんだという考え方である。
 ここで一つ問題が出てくる。それはヒナヤーナにおける不偸盗の戒と財を盗み取ってもいいんだと考えるラトナサンバヴァの教えの矛盾である。しかし、この矛盾については簡単である。先程述べたとおり、まずヒナヤーナにおける不偸盗の戒と呼ばれるものは、この人が離愛著し、そして低級霊域へ入り、そこから人食い鬼神、神聖天、そして大神聖天、光音天へと至る道を歩くための実践である。一方ラトナサンバヴァの場合、先程述べたとおり、財というものはだれのものでも本来はないと。そしてそれは善にそれをもし化すことができるならば、それは奪い取ってもいいんだと考える。そして、それは功徳であると考える、その記憶修習ができるかどうかによって違ってくるということになる。したがって、ここでの戒律対ラトナサンバヴァの教えというのは矛盾しないのである。つまり、それはその人かどの程度智慧を有するのか、その人がどの程度本質的に真理というものを悟っているのかによって違ってくるのである。
 次は。−−いいですか、この法則はもともとダライ・ラマ法王もお説きになりたかった法則だが、しかし、ダライ・ラマ法王は人間の知性があまりにも低いがゆえにお説きにならなかったとわたしは考えています。それゆえにチベットは滅んだんだと考えています。
 第二。第二はヒナヤーナにおける不殺生の戒と、それからマハーヤーナにおける生命延長という意味と、それからアクショーブヤの教えについて法則を説かなければならない。この不殺生、それからマハーヤーナの教え、それからアクショーブヤの教えについては、相当にこの教えを理解する場合、智慧を有するということができる。というのはヒナヤーナとそれからタントラ・ヴァジラヤーナは真っ向からその教えの本質、つまり解脱のシステムというものが対立するからである。
 まず、なぜ不殺生をした方がいいのか。これは不殺生を行なうことにより、つまり、殺生しない戒律をじっと守り続けることにより、多くの魂に苦しみを与えないということがある。したがって、苦しみを与えないということは、自分自身が苦しまないということである。したがって、わたし、あるいはわたしの弟子たちは小さな生き物、大きな生き物に対してこの不殺生の戒律を守ると。したがって例えば毒ガス攻撃を受けたとしても苦しまないと。そして、最も大切なことは、その生から死へ、小さな生き物にしろ至らしめるときに意識の断絶が起きると。その意識の断絶イコール瞑想の断絶につながると。したがって、この不殺生の戒律というものは素晴らしい戒律であるということができる。
 ではマハーヤーナにおいては、この不殺生についてどう考えるのかと。単純に殺生しないではなく、他の生命体を喜ばせ、そして生命を長引かせる努力をすると。それによって自分自身の寿命を長引かせると。これが不殺生、そしてマハーヤーナにおける生命延長の実践ということになると。
 では、タントラ・ヴァジラヤーナにおいてはどう考えるのかと。タントラ・ヴァジラヤーナにおいてはアクショーブヤの法則というものが存在する。アクショーブヤの法則とは何かというと、その生命体にとってどの時期に死ぬのが一番輪廻にとってプラスになるのかという実践である。つまり、例えば毎日悪業を積んでいる魂がいるとしよう。この魂は十年生きることによって地獄で十億年生きなきゃなんない。とするならば、例えば一年、二年、三年と長くなればなるほど、その次の生の苦しみは大きいと。したがって早く命を絶つべきであるという教えである。つまり、不殺生の戒と、このアクショーブヤの戒律というものは真っ向から対立することになる。しかし、カルマの法則から見るならば、両方とも正しいということができる。ただ、見ている点が違うんだと。
 つまり、ヒナヤーナの戒律においては自己の身体の苦痛というものをポイントとして見ていると。タントラ・ヴァジラヤーナにおいては自己の身体の苦痛ではなく、自分自身の輪廻転生、つまり意識は乗り物の主であり、そしてその乗り物の主は乗り物を移し変える、乗り物から乗り物へ移し変えるときの中心であるから、その主の道が外れないようにすることか必要なんだと考えると。したがってこの肉体の苦痛よりも輪廻を重視すると。これがアクショーブヤの戒律の本質であると。
 第三番目はヒナヤーナにおける不邪淫の戒と、マハーヤーナにおける慈愛と、それからタントラ・ヴァジラヤーナにおけるアミターバの戒律を対比をする必要がある。まず、ヒナヤーナにおける不邪淫の戒というものは、邪淫を行なうことによって自分自身の血流が性器に集中し、スヴァディスターナに集中すると。しかもそれだけではなく、例えば他人の妻−−一般的には他人の妻を盗むことを不邪淫の戒に触れるというわけだが−−他人の妻や他人の夫を盗むことによってその人の意識状態というものは、それを保持する魂の、つまり例えば妻や夫、特に一般的には経済的な面倒を見られているかどうかがポイントになるわけだが、その経済的な面倒を見られている方の魂のカルマを受けることになるから、これは動物界に落ちる。ゆえに不邪淫の戒は守るべきであると説くと。
 マハーヤーナにおいてはどうなのかというと、多くの人に多くの愛を注ぐと。しかし、ヒナヤーナにおける戒律というものは原則的に守られると。
 では、アミターバの戒律はどうなるかと。ここでいうラトナサンバヴァ、アクショーブヤ、アミターバ、アモーガシッディ、ヴァイローチャナという五仏はこれは戒律である。戒律であるというのは何かというと、タントラ・ヴァジラヤーナにおける原則的な思考ということになる。
 これは、その魂にとってその伴侶が、あるいは恋人が、真理というものを考えた場合、その真理に対して益するのか、益しないのかということがポイントになる。例えば、妻に引っかかり、夫に引っかかっている場合、それは真理の実践から見ると、非常に障礙になるわけだが、もし、その場合は盗んでもいいということになる。というよりも積極的に盗め、という教えが存在するのである。これは何を意味しているのかというと、先ほども述べた、カルマの法則というものがすべてをこの五仏の法則においては、基本の修行者の考え方になっているのである。ではそれはどういうことかと。例えば、愛著し喜び合うということは徳の表われである。これは素晴らしいことである。しかし、愛著し喜び合うことにより、例えば真理を実践しないということは、その魂は、次の生において動物界へ転生するかもしれない。したがって、その魂のカルマを最も高い状態で輪廻させるために、魂にとって順縁の偽になっているものを奪い取るのである、これがアミターバの法則と呼ばれるものである。
 次は原因の道と呼ばれるヒナヤーナと、それから中間の道と呼ばれるマハーヤーナと、それから結果の道と呼ばれるタントラ・ヴァジラヤーナの大きな違いを表わした教えが存在する。これは何かというと、アモーガシッディの法則と呼ばれるものである。例えばヒナヤーナにおいては、少しずつ善を積み上げる、少しずつ徳を積み上げるということを行なう。
 しかし、例えばアモーガシッディの法則になると、どうなるかというと、結果のためには手段を選ぶ必要がないと説くのである。なぜならば、もともとこの五仏の実践を行なう魂は、本質的に真我独存位であり、そして真我そのものの中に五つの仏陀の種子というものは存在しているわけだから、その五仏の実践を行なう魂のすべての行為は肯定されるべきである。したがって早く結果を出し、結果を出すことにより、世の中に大きな影響を与え、世の中に大きな影響を与えることにより、多くの衆生を済度しなければならないと説くのである。
 これがアモーガシッディの法則と呼ばれるものである。つまり、結果のためには手段を選ばないということである。
 最後にヴァイローチャナの法則というものが存在する。しかし、このヴァイローチャナの法則と呼ばれるものは、一般的に、まあ、ここであなた方に話したとしてもね、この日本では決して実践できえないものであるから。例えば、それは象の肉とか、いろんな肉が必要になってくるわけで、できないからここでは割愛させてもらう。
 したがって、わたしが今日言いたかったことは何かというと、自分自身がどのスタンスの修行を行なうのか、それはヒナヤーナなのか、マハーヤーナなのか、あるいはタントラ・ヴァジラヤーナなのかによって方法および結果が違ってきますよと。


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