喫茶Honfleur掲示板2005, 2006年

タイトル 画像
Message#から前件を

日から 前を

最新20件 最新50件 最新100件 最新200件 200件以前
昨日以降(0) 2日前以降(0) 3日前以降(0) 4日前以降(0) 5日前以降(0)
画像 サーチ セットアップ


Message#2308 2006年1月1日(日)08時58分
From: 和井 恵
「縁起の法」が示唆する修行方法。
新年、明けましておめでとうございます。
色々と用事が残っており、ようやく部屋に戻って参りました(笑)。

さて、それでは続きです。

さくらさんのメッセージ(#2294)への返事

> 和井 恵さんのメッセージ(#2293)への返事
>
> > 「無明」とは、単純に、「ある状態」を表しているのです。
> >
> > 「真っ暗闇で、何も見えない状態」。
> > 「自覚する(気づく)ことができない」という「盲目」の意識状態…
> >
> > 単純に、ただこれだけ。
>
> これは・・・
> シンプルなご説明ですね。

そう、「真理(純粋な理)」とは、すごく「シンプル」なのです。
決して「複雑」なものではありません。
それが理解できてしまえば、
もう「難しそう」だという「不安」はなくなるでしょ?


> > 「自覚する(気づく)ことが出来ない」から、
> > 自己の「潜在意識」から「囁(ささや)かれる」声なき指示に、
> > 「盲目的(自主的な選択・判断ができず)」に従ってしまい(無知)、
> > 「衝動的」な「欲求(貪・渇愛)」や「感情(憎悪)」に巻き込まれてしまう。
>
> 今まで何度も話の中に出てきたことですよね。
> それをもう少し細かく説明したってところでしょうか。
> 三毒というのが無知、貪・渇愛、憎悪なんですね。

そう、「無明」と「三毒」の基本的な関係がこれ。


> > 次に、これを「縁起」の観点から説明してみましょう。
>
> 縁起の原語 pratiitya-samutpaada の原意は、「因縁生起」の略と考えられ、「他との関係が縁となって生起すること」の意味で、関係の中の生起の意味である。この縁起という思想こそは、仏教の根本思想を示し、仏教教理の土台である。釈迦の証悟(さとり)の内容は、この縁起の理に他ならない。
>
> いよいよ核心部分ですね。

ここで問題なのが、「因縁」という言葉。

仏教では、「カルマ(業)の働き」を四つに分けて説明しています。
つまり、「因・縁。果・報」。
正確には「業因・業縁・業果・業報」と言いますが、
「原因」と「それを補助する条件」、そして「結果」と「その影響力」という、
「時系列的」な「推移(生起過程)」を顕します。

しかし、「縁起の法」をこのような観点(因縁生起)から「理解する」のは「間違い」なのです。

このような「解釈の仕方」を「業感縁起」と言います。
釈迦の死後、数百年を経てからの「部派仏教の時代」に登場してきた「解釈」の仕方なのです。

そして、一般に「縁起の法」と言えば「十二縁起」がすぐに「連想」されますが、
元々の「縁起の法」は、もっと「シンプル」なものでした。

「これ」有るが故に「これ」あり。
「これ」無ければ「これ」も無し。
「これ」生ずるときに「これ」が生じ、
「これ」滅すれば「これ」も滅す。

これが、「縁起の法」の最もシンプルな「方程式」だったのです。

釈迦の弟子で「智慧第一」と賞された「サーリプッタ」は、
弟弟子たちに「縁起の法」の「説明」を頼まれたとき、次のように説明しています。

「二つのワラの束」を想像してごらん。
それらはお互いに「人の形」をして、お互いを支え合って「立っている」。
しかし、そのうちの「どちらか一方」を「倒して」ごらん。
すると「残っていたもう片方」も、「自らの重み」に耐えきれずに「倒れてしまう」だろう。
「縁起」とは、そのような「関係」のことを指して言うのだよ。

私は、以前のレスで、このように言いました。

|さらに「縁起」について言うならば、
|「無明」と「行」は、
|このような「相補関係(相互依存関係)」として捉えるのが正しい、
|というか、要するに「苦の滅尽」に役に立つのです。
|時系列的に「無明」から「行」が生じる(生起する)、と捉えるのは、
|実は間違い(問題解決に繋がらない謬見解)なのですね。
|「原因と結果」といった「時間的な因果関係」ではありません。

|「無明」が有れば「同時」に「行」が在り、
|「行」が在れば「同時」に「無明」もある。

|「無明」が無ければ「同時」に「行」も亡くなり、
|「行」が亡くなれば「同時」に「無明」も滅尽する。

|「苦の滅尽」は、「瞬間(今この一瞬)」に起きるのです。

「縁起の法」とは「因果関係による生起の流れ」ではなくて
「存在するための条件分析」の方法なのです。
このポイントをまず、しっかりと理解して下さい。

そして、この「縁起の法」を「無明」と「三毒」の関係に当てはめてみると、

「無明(の状態)」と、「三毒(の心の偏り)」は、お互いを支え合って生起している。
従って、「無明」か「三毒」のとちらか片方を「消滅(静める)」させてしまえば、
「苦しみを生起させる条件」は無くなり、心は「滅尽の状態(ニルヴァーナ)」に至る。

「貪・渇愛」「怒り・憎悪」「盲目的な自律反射作用・無知」の三つのうちで、
もっとも影響力が強く「主役(メイン)」となるのは「貪・渇愛」です。
「求めて得られない」からこそ、「怒り」や「憎しみ」が増してくる。
「無知」の方は、むしろ「無明」から派生する心の状態です。

ですから、「苦を滅する」ための「アプローチ(修行)」の方法としては、
「無明」という「苦しみを生起させている側面」から滅していく方法と、
「貪・渇愛」という「もう片方の側面」からの、
心を「静める(あるいは、その囚われから離れる)」という
二つのやり方があるわけです。

「無明」の滅尽によって「慧解脱」があり、
「貪・渇愛」からの離脱によって「心解脱」があるのです。

最新20件 最新50件 最新100件 最新200件 200件以前
昨日以降 2日前以降 3日前以降 4日前以降 5日前以降
nerimb5.cgi Ver. 5.043
Copyright(C) 1997-2008, hidekik.com
当掲示板の内容は全て冗談です。冗談を解する方のみ閲覧してください。