喫茶Honfleur掲示板2005, 2006年

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Message#3189 2006年3月17日(金)14時25分
From: 和井 恵
中間投稿その3。
●「為したことしか返ってこない」という世界

「過去に為したことしか返っては来ない」ことが絶対的に正しいとした場合、まず、
修行という観点から考えると、現世で「自分が成就をする」ためには、過去世で「誰
かを成就させた」あるいは「自分で成就した」実績が無ければ「結果」は生じないと
いうことになります。つまり、いくら修行をしても「過去の実績」の無い人は「目的」
に到達することができず、結局は「昔と同じレベル」で止まってしまうことになって
しまうのです。何故ならば「(過去に自分が相手に)為したことしか(相手から自分
に)返ってこない」のですから…
そして、現世で「誰かの弟子になる人」は、全て過去世で「誰かを弟子にしたことの
ある人」なのだということになってしまうのです(笑)。理論的にはね。
そして、「自分が他に為す行為」は、相手にとっては「過去(世)で自己の為した行
為」になってしまう為に、いくらその人が「努力や工夫」をして他の人に接したとし
ても、その「行為」は、全て「相手の過去の行為」の「範囲内」での「行い」に「限定」
されてしまうのです。「カルマ」の「法則(強制力)」によって…

そこで、この「世界観」では導師からの「カルマの交換」が絶対に必要となってくる
のです。「データの入れ替え」とは、導師から「過去の実績」を分けて貰うことに他
なりません。すると、今度は「その人の導師」に「実績」を与えたのは誰か?という
疑問が出てきます。そう考えて「過去の因」を追求してゆくと、教義としては「根源
的な存在」が「絶対に必要(存在していなければならない)」になってくるのです。
つまり、「主の中の主、王の中の王、仏陀の中の仏陀、偉大なる完全なる絶対なる魂」
と定義されている「マハー・ニルヴァーナのシヴァ大神」のような「特別な真我」と
いうモノが存在していなければ、この「世界観」は成立しないのです。
そして、もう一つは「導師の持つ神秘力(カルマを超える力)」が無ければなりません。
何故ならば、「相手の過去に無い行為」を相手に施すには、「カルマの法則」を超える
「必要」があるからです。

衆生には、「すでに解脱している魂」と、「ある程度まではできる魂」「そのままで
はできない魂」といった「資質の格差」がある。「為したことしか返ってこない世界」
とは、そういう「格差のある世界」なのです。
そして、それを打ち破る「方法」として、「イニシエーション(経験の交換)」が存在
する。だから、「神秘力」を持った「導師」無しでは「成就」は難しい(ほとんど無理)
という理論が成り立つのです。

果たして釈迦は、そんな「教え」を本当に説いていたのでしょうか?

オウムの初期の説法には、「苦の総量は一定である」という言葉が登場していますが、
確かに「カルマの法則」が正しいとするならば、「苦を滅尽する」ことは不可能だと言
えるでしょう。
ある人が「人を殴った」場合、その「行為」を精算するためには、「人から殴られる」
ことか必要です。しかし今度は、殴った「相手」が「悪業(苦の因)」を背負うことに
なってしまいます。つまり、この「世界観」に従うと、「悪業(苦の因)」は「消滅」
するのではなく、ただ人から人へ「転移」するだけだと言うことになってしまうのです。
まるで、人から人に「キャッチボール」の「球」が受け継がれていくかのように…
ですから「苦の総量は一定」である、という結論が成り立つのです。

すると、「自己の苦しみを喜びとし、他の苦しみを自己の苦しみとする」という「修行」
を「救済方法」という観点から捉えることもできるのです。
つまり、できるだけ多くの「悪業(苦しみの因)」を自己に内在させることによって、
相対的に「周囲の悪業(苦しみの因)」を減少させてゆく…
まるで、冷蔵庫の中に置かれた「キムコ」のように「悪臭」を吸収して周囲を「清浄」
にしてゆくという考え方ができないこともない。
しかしその場合は、今度は「(救済者としての)修行者 」が「カルマ落としを受ける」
ことは、それだけ周囲に「悪業」を撒き散らすことになるので、「その行為」は良くな
いという「考え方」にもなってしまう(笑)。
だから、本当の「救済者」を目指すのならば、「カルマ落とし」を喜んではいけないこ
とになりますよね。
そして、自分で自分を「竹刀」で叩いて「カルマを落とす」という「オウムの修行法」は、
「落とす」と同時に「自分で新しい悪業を造っている」ことにもなり、その「自己の悪業
の総量」は減らないのではないでしょうか?
もし、減るのだとしたら、「減ってしまった悪業」は何処へ行ってしまったのでしょう?
だって「苦の総量は一定」なのですからね。

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