喫茶Honfleur掲示板2005, 2006年
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Message#5727 2006年11月16日(木)01時00分
From:
전재
最古参さんとこから辿って・・・中沢新一さんって良いこと言ってたんだ
『オウム真理教信者への手紙』 中沢 新一
「週刊プレイボーイ」*95年5月30日号 p.45〜48
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オウムという教団が日本から消滅した時、生きる意味を知ろうとした信者の <魂>の 問題はどうなるのか。「帰ってらっしゃい」という“説得”どおりに家に戻るだけか。 「ひとりで歩め」。中沢氏はそう呼びかける。学者や研究者としてではなく、彼らと 同じように<魂>を、<真理>を追い求めたものとして − 。
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オウムの中の「聖なる狂気」
私が、あなた方のグル(導師)麻原彰晃氏とはじめて会ったのは、1989年のことでした。 雑誌の対談でした。
その当時、オウム真理教は坂本弁護士一家の失踪に関わりがあるのではという疑惑のさ なかにあり、マスコミのバッシングもはじまっていました。思えば、その事件あたりから、 その後、あなた方の教団が体験し続けなければならなかった、日本社会とのはげしい不調 和が、はじまったのでした。
はじめて会った麻原さんは、とてもゆったりした感じで、どちらかといえば、私のほう が緊張ぎみだったかも知れません。私はもともと「超能力」などというものが、魂の深化 にとって、どれほどの意味をもつのか、きわめて懐疑的な人間ですし、私のチベットのグ ルたちも、そんなものにたいした価値をおいていませんでしたので、「超能力者」として の麻原さんの世間への押し出しの仕方には、あまり共感をいだいていませんでした。とこ ろが、話をしているうちに、この「最終解脱者」を自称している人物が、並々ならぬ知性 の持ち主であることに、私は気づくことになったのです。
私はいままでに、何人もの現代の宗教家と話をしたことがありますが、「聖なる狂気(デ ヴァイン・マッドネス)」という言葉を出したとたんに、あれほどすばやい反応と正確な 理解をしめしたのは麻原さんがはじめてでした。
この言葉は、宗教の本質に触れているものです。人間のなかには、社会の常識によって 囲い込まれた、狭い枠を破っていこうとする衝動がひそんでいます。より高いもの、より 純粋なもの、より自由なものに向かっていこうとする衝動です。その衝動を、現実の世界 の中で実現しようとすれば、まずは社会の常識と衝突することになります。
たいがいの人は、そこで妥協する方向を選びます。ところが、宗教者というのは、そう いう妥協を拒否してまでも、自分の魂の衝動に忠実に生きていきたいと願う、変わり者の ことを言うのです。
麻原さんは、日本人の宗教に欠けているものは、そういう反逆のスピリットなのだ、と 強調しました。そのときの麻原さんは、宗教家というよりも、革命家のような口調でした が、私はそのとき、ああ、これで現代日本にもラジニーシ(インド生まれの宗教家。渡米 し、世界規模で弟子を集めるが、国外退去を命じられる。90年、死亡)のようなタイプの ラジカルな宗教家が、はじめて出現することになったのだな、この人はなにか新しいこと をしでかす可能性を持った人かも知れないな、と思ったのです。
そういう感じをいだいたのは、私だけではありませんでした。90年代のはじめ、何人か の宗教学者が、オウム真理教になにがしかの可能性を見ようとしたことは、事実なのです。 私はその理由がどういうものか、だいたいわかっています。
日本の新興宗教には、ふつう教祖様というのがいます。この教祖様が、ときにはイエス や仏陀の生まれ変わりであったりすることもありますが、たいがいは特殊な能力をつうじ て神や仏のあいだを仲立ちして、その意志や考えを信者に伝えるという役目を果たしてい ます。神がいて、ふつうの信者がいて、そのあいだを教祖様が仲立ちするという、この仕 組みは、シャーマニズム(超能力者を仲立ちにして神の意志を聞くタイプの宗教)の構造 とそっくりです。
そのために、そういうできあがりをした日本の信仰宗教は、現実の日本社会の中にうま く自分の居場所を見つけることができます。なぜって、天皇制や会社組織をみてみればわ かるように、日本の社会全体がそういう構造をしていますからね。
日本型社会」への批判、そして変質・・・
ところが、オウム真理教ははじめ、そういうシャーマニズムの構造を否定しようとして いました。たしかに、そこにも麻原彰晃という教祖様はいますが、彼はあくまでも、理想 としてはグルであって、もともと信者とシヴァ大神を仲立ちしてくれるような人ではなか ったはずなのです。
この教団の特徴は、信者の一人一人が修行をすることによって、真理であるシヴァ大神 と直接に一体になることをめざしたことにありました。シャーマンである教祖様をあがめ るのではなく、修行者一人一人が真理そのものを体験していこうとしていた。これはやは り新しいことであった、と思います。
それを実現してくれるオウム真理教の修行のやり方が、はたして正しいものであったか どうか、私には言いたいことは山ほどあるのですが、いまはあえてそれは問いません。そ れよりも、日本社会を煮詰めたような宗教教団なるものにおいて、もっとも日本的ななり たちをもった宗教の構造を、大胆に否定しようとする運動をオウム真理教がはじめようと したことのほうが、重要だと私は思います。
あなた方に、今日浴びせられている恐るべき悪罵中傷を全力でかきわけてでも、私はこ の事実を確認します。あなた方は、なにかの可能性をもっていた人々なのです。 オウム真理教は、日本社会の仕組みを逆なでするようなことを、あえて企てていたので すから、いろいろなところで社会とのあつれきをおこすのも無理もないことだ、と私は思 っていました。しかし、それはあなた方の教団が、シャーマニズムの構造におちこまない ような努力を続けたときにだけ言えることです。
ところがもしも、オウム真理教のような日本社会へのラジカルな批判性をもった集団が、 自分の内部に、日本の国家によく似た権力の構造をつくりだそうとしてしまったら、その 瞬間から、すべてがとんでもない方向に変化をおこしはじめるだろうということは、たや すく想像がつきます。
あなた方は、ほんものの「自己」を発見するために、日本社会の常識の枠を超え出よう としていました。それだけで、もうそこには反社会性への芽が芽吹くことになりますが、 あなた方が日本社会と同じ仕組みにおちいらない努力をつづけているかぎり、あなた方の 存在は日本社会への批判たりえても、敵対することにはならなかったでしょう。ふたつの 違う構造をしたものは、たがいに敵対することはできませんからね。
ところが、もしもその集団が、日本的なシャーマニズムの構造への変質をとげたとした ら、どういうことがおこるでしょう。その集団は、煮詰められたミニチュアの日本にな ってしまうことによって、批判力を失い、そのかわりに敵対関係のほうだけはどんどん先 鋭化していく事になるでしょう。
そして、オウム真理教には、そういうことがじっさいにおこってしまったのた、と思い ます。あなた方の教団は、ここ数年の間に、ますますシャーマニズムの構造に、おちこん でいくようになってしまいました。あの日本国家を模した省庁の機構に、それがよくしめ されています。
そこでは、グルは法皇になり、誇り高いはずの修行者は、みじめな臣民になってしまっ ています。もちろん一人一人の修行者は、個人の修行のレベルでは、ヨーガの神秘体験を とおして、本来の「自己」をとりもどそうと一生懸命に努力を続けていましたが、それを 包み込むオウム真理教そのものは、グロテスクで巨大なミニチュアの日本に姿を変えてし まっていたのではないでしょうか。そしてその時、批判性は敵対関係に姿を変え、宇宙と の豊かな魂のつながりを説く教えは、ルサンチマン(恨み)にみちた暗く貧しい黙示録の 想像力にとってかわられるようになってしまってのではないでしょうか。
「ひとり」で歩きだそう。誇りを胸に・・・
いま、あなた方を取り巻いている状況は、これ以上悪いものもない、と思われるほどに ひどいものです。修行者に向かって「あなた方はマインド・コントロールされている」と いうのもずいぶん失礼な話だと思いますが、そんな失礼が堂々と大手を振っておこなわれ ても、誰もなんにも言えないほど、あなた方を取り巻く状況は最悪です。テレビの画面か ら、あなた方に「もどっていらっしゃい」という優しい思いやりにみちた呼びかけが、繰 り返されています。でも、どこへ? あなた方は、一体どこへ戻っていけばいいというので しょう。
家庭にもどって、もう宗教なんていうあぶないものから足を洗って、人間の霊性がどう のとか、文明がどうのなんてことを考えつめたりするのをやめて、ただまわりのみんなが やっているような無難な生き方をしていけばよいのでしょうか。もちろん、それも可能で しょう。でも、いちど霊性や真理の追究に心を開こうとしたあなたが、そういう生活のな かで幸福になれるとは、私には思えません。だから、あなた方が、オウム真理教にかかわ った、そのことのすべてを否定する必要などはない、と私は思うのです。
同じ魂の修行をめざすものとして、私は断言しますが、修行者にもどるところなどはあ りません。ただ自分を縛っていたもの、自分をだましていたものがあったとしたら、それ を全力で否定し、振り払って、ただ前をみつめて歩んでいくことだけが私たちにできるこ とです。そうでなければ、いったん高みをめざした魂は、深い屈辱を味わうことになるだ けです。
私のチベット人のグルは、私に教えなければならないことがほぼ終わったとき、私にこ う言いました。
「もうこれから先は、おまえが一人でやっていくことだ。いつまでも私に頼ったりして はいけない。本当のグルはお前の心そのものだ。だから、いつまでも、私のそばにぐずぐ ずしていてはいけない。とっとと、遠くに行きなさい。そして、自分一人の探究を続けな さい。どんなに離れていても、そうすれば、私の心はいつまでもおまえと一緒だよ」
麻原さんがあなた方に言ってあげなければいけなかったのも、こういう言葉だったので はないでしょうか(ついでに言うと、チベット仏教では人に向かって、「地獄におちるぞ」 なんて、おどしたりしませんし、そんなことにおびえたりもしません)。
どんなにすぐれたグルだって、しょせんは一人の人間です。そんなのものにいつまでも 執着していては、弟子の魂はいっこうに成長しないでしょうし、また弟子たちを手元に引 き止めておこうとばかりするようでは、グルの精神も退化していくばかりです。
あなた方がオウム真理教に入ろうとした動機を、思いおこしてみてください。おそらく あなた方は、自分が本来の「自己」ではないと感じ、自分を育てつくりあげてきたものに 疑いを持ち、そして、本来の「自己」にたどりつくために、そうしたのではなかったでし ょうか。それを考えてみれば、親や家族の待つ家庭や社会に帰るかどうかは、それほど重 大な問題ではなくなるでしょう。いや、むしろ、いちど、帰ってみるべきかも知れません。
ほんとうの魂の探究者は、苦しみながらも社会のなかで、生きようとするものですし、 群衆のなかにいながら、群衆には従うことなく、ただ自分の心にしたがって生きることこ そ、自分の魂を成長させる最良の方法だからです。だから、グルからも離れ、たとえ教団 からも離れたとしても、あなたの探究が終わりになるわけではなく、むしろそこから、ひ とりになったあなた自身の、ほんとうの探究がはじまるのです。
この逆境のなかで、誇りを保ち続けるのはむずかしいことです。しかし、あなた方は、 こんな息苦しい現代の中で、魂の真実を求めようとしてきたひとりの人間としての、修行 者としての、誇りを持つべきです。そして誇りをもって、自分を縛っている殻を打ち破っ て下さい。オウム真理教としてはじまった運動にとって、あのグロテスクに肥大した教団 の組織は、もともと必要のないものだったのですから。
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