| > この点について、私がオウムに持っている感想だけ申し上げておきますね。 > 仏教・密教・ヨーガetcをいっぺんごちゃまぜにして、 > それらに一貫性をもたせるべく、さまざまな論理構築をしている団体、 > という風に感じますね。 > 明らかに仏教の教義が存在し、それらの用語(ただし現代語訳している)を使っている、 > この状況について、仏教の流れの一つと見られなくもない、とは思います。
左様でございますか。見られなくもない、そうですか、見えそうで見えないあのこのパンツみたいなもんなんですね? わたしは下賎ながらパンツを見たいと思ってしまう蛮族なので、見えるのなら見たいと思ってしまいます。それが借りに仏教の流れだとしても。
> うん、それも私の理解の範疇内でした。 > でもね、それは初期の教団に言って欲しい言葉です。 > あるいは90年くらい以降の教団かな。 > もうオウマー業界には教団独自の言葉が浸透してしまっていますから、 > その段階に来てしまっている私たちに要求されても少し困るんですね。 > その困りを解消する手段として、上記のように「確認」をお願い致しました。
確認ですか。はい。本当は知っているんだけど、敢えて知らないフリしてました。ごめぽ。
> > いくらなんでも私はそんな詐欺は致しませんって。(苦笑) > 定義の違いがある、ということをわからないまま批判されてるみたいですね、 > それでは定義の互換性を探るだけでも相当な容量を費やしてしまいますから、 > まず定義の違いを確認してからにしましょうね、と言ったわけです。
定義の互換性は別に問題ではありませんが、まあ、要するに、小難しい役人言葉を使って分かっているのは役人だけで、本来その利益に与るはずの市民が全然分からないのでは本末転倒なので、役人言葉をやめてパンピー言葉・ギャル語にしちゃおうよー、というスタンスです。
> 共通言語がオウム用語という傾向が強いです。 > つまりオウム体質というより、オウマー体質なんですね、ここの場合。 > そういう意味でも「真理研究会掲示板」をお勧め致します。
オウマー体質なんですかー。西村おじちゃんはそうは思いませんけども、ここに足を運ぶ人がってことですね? それでも真理研究会掲示板はボッタクリキャバクラのようになるのはまっぴらなので折角のお勧め心苦しいですが辞退させてください。
> 確かこう書かれていたように記憶しています。 > 「私は天界ではブッダと呼ばれている。 > しかし、私が価値を見出しているのは真理勝者である。」 > この言葉を信じるなら、この二つは別の定義を有しており(あくまで尊師にとって) > 尊師はブッダではあるけれども真理勝者にはまだ至っていない、 > ということになります。 > と、いうのは、尊師曰く、真理勝者は最終生だけみたいですから。 > つまりウン十億年後の8万年の生涯だけを指していることであると。 > 従って、余談ながら32相もその生涯だけに限定していることになると。
書いてあったっけ?こりゃ私の落ち度。見落としてたなー。そんなこと言ってたっけー?それって書籍化されてますか? それにしてもアジタが現世に降臨するなんて・・・・・・ 逮捕されちゃうなんて・・・・・・グスン
> ちなみに、真理勝者「である」と書いているのは、 > ほぼ弟子の所業でしょう。
弟子の分際で大それたことをするもんですね。 それって、もしかすると、麻原が裁判で、「全部弟子が云々」って言っているのと繋がりがありますか?偉大なマハームドラーですね。これは輪廻転生談として記録しておかねば。
> しかも本人は、「未来の」真理勝者の弟子、というつもりであると。 > 変な喩えですが、絶対親父を継いで社長になるとわかりきっている若旦那の > 腰巾着であるということは、 > まあ平たくいえば「社長の腰巾着」とも考えられなくはない。 > つまり、「未来の」という一語を大前提として省略しちゃってるパターンですね。 > ほとんどそれと同じ意味だと思います。
じゃあ、真理勝者だ、というべきではありませんね。オウムで真理勝者はこれこれこうだと定義していて、麻原自体「私は真理勝者ではない」と言っているのだから、世間に「真理勝者だ」とふれこんでいるのは明らかに虚偽だし虚言の破戒をしているわけですから、言うべきじゃありませんよね? いわば破戒サマナが多すぎるって意味とまで拡大解釈。
> 「定義の違いを認識していない状態では、定義のすりあわせからしなければならない。 > これは批判云々以前にしなければならない作業を山積させてくれたゆえである。 > 従って、定義のすりあわせをした上で、改めて批判を書いて貰わねばならない。 > これは真っ当な批判に行き着くまでにそうとうの労力を費やすことになるぞ。」
いや、私はそう思わないんですよ。批判というか、「違うんじゃないの?」という議論において、お互いの言葉の定義を確認していくことは議論の基本だと思っています。お互い違う言葉を理解していく作業をしなかったら結論に達しないですもの。たしかに「長くなって嫌だ」となりますが、厳密で濃い内容・より正確な互いの理解を図ろうとするなら、どんどん厳密になっていかなければおかしいと思います。 いきなり「おーい、かあさん、あれだよ」って言われて全部分かるような神業はできないわけですから、おっくうかもしれませんが、そこを怠惰になってはいけないと思っておりますがどうでせうか?
> で、その結果わかったことは何かというと、 > 「ブッダ=如来」という発想でオウムを見ると、 > 「麻原=32相がない=如来じゃない=ブッダじゃない」となると。 > ところがオウムの定義を使うと、尊師が如来かどうかということと、 > ブッダかどうかということとはまったく別の話になってしまうと。
うっそー。まじっすかー。だめよーん、如来は仏陀を更に敬った言葉(敬称)なんだから、そこ変えちゃよーん。 如来と仏陀が違うってしちゃだめよーん。そりゃオウムの過失だね。 だって、釈尊も、「仏陀が如来と呼ばれるのは三界をありのままに見るからである」って言ってるんだから、お釈迦様の仰ったことを変えちゃだめよーん。 無生法耐とか、空・無念・無想・この世の実態を「如」すなわち真理から来る者が仏陀という定義になっているんだから、変えちゃだーめだーめ。 これにかんしては労働組合ばりに労使交渉的に譲れませんよー。
> これで「論破」とまで言えるかどうかは甚だ疑問ですが、 > まあいうなればこのようなことです。
論破してくれるって言ったぢゃーん。ずーるーいー。 好きって言ったぢゃーん 結婚してくれるって言ったぢゃーん 幸せにしてくれるって言ったぢゃーんみたいに、男に弄ばれて散々陵辱されたあげく反故にされたくらい打ちひしがれたー。男なんて信用できないわ!!!
> あ、でもこういうことってちょいちょいありますよ。 > 音楽でもあります。 > 例えばアーティキュレーションという言葉がありますが、 > これ、歌や楽譜解釈の場合だと、メロディをどういう区切り方で演奏するか、 > どの音とどの音を繋げて、どの音は切り離し、独立させるか、という演奏計画、 > また、その演奏計画指示の記号をアーティキュレーションと言いますが、 > 鍵盤楽器の場合、主に打鍵した瞬間に発せられる、 > ハンマーが弦を打った瞬間に出る音の立ち上がり方のことを指します。 > つまりこれは、「楽器法」という範疇における定義ですね。 > しかし、鍵盤楽器でも音楽の構成のしかた、という範疇で話をすると、 > やはり前者の定義になるわけですね。 > ですから、どちらの定義で話を進めるのかを最初に確認することが > 非常に重要であると言えるでしょう。
アーティキュレーションって元々美術用語じゃなかったでしたっけ? わたしも音楽からそれに入った口ですが、鍵盤楽器のそれもアーティキュレーションというのははじめて知りました。勉強になりました。 もののついでみたいで申し訳ないんですが、音楽のプロと見込んで!?ひとつご教授願いたいです。 わたしの師匠はアウフタクトの反対の言葉を知らず教えてくれませんでしたが、アウフタクトの反対の言葉は何というのでしょうか? やっぱり「頭」とかですか? ドイツ語とかイタリア語でないんですか?
> > > 32相はまだ具足していない、としても、 > > > 尊師の論理の範疇においては成立してますよね?
そーいわれちゃー、成立するとは言うしかないですね。でも、仏典の記述を元にするなら、成立しないとも言えちゃうよね?って、まあどーどー巡りですが、これはまあお蔵入りさせましょう。
> いや、別に教団を特に冒涜する気はないですよ。 > 気の向くまま、教団も冒涜すれば被害者も冒涜し、また自分をも冒涜します。 > ですからそんなにほめられることでも、責められることでもないと思います。 > 別に教団を変えようとも思ってませんし。
おそらく免罪符が販売されているのでしょうからどんどん冒涜してローマ教皇からそれを買って天の裁きを免れましょぞ。
> そのへんはね、別にどうでもいいのですよ。 > 誰も私のことを犯罪者だともその一味だとも思ってないみたいだし。 > 単なる変人オペラ歌手ってことで理解しておけばよろしいかと。(笑)
あら?そうですか?私は一味だとしっかり思っていますよ。冗談です。
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