喫茶Honfleur掲示板 2007〜2009年

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Message#14308 2008年6月15日(日)04時25分
From: 和井 恵
変更
Re8:和井さんへ
YASUさんのメッセージ(#14303)への返事


> キャンディちゃんか誰かが、わたしの教義資料を使って、
>
> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>
> 748 :神も仏も名無しさん:2008/06/14(土) 20:40:45 ID:7o5BBNju
> >>719
> 「神聖天」の説法には、
> 「一般的に、在家で頑張った場合、その限界がこの神聖天である。」
> と書いてある。
> でもオウムの教義自体いい加減だからどうでもよい話。
>
> http://blog116.fc2.com/a/aumer000yasu/file/nif005.txt
>
> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>
> と書いていたんですが、どう思いますか?
>
> 在家信者は神聖天(梵天)が限界だとソンシは言っているんですが。

これは「謬見解」ですね。
ここで少し検証してみましょうか…

要するに、在家は「不還」までが限界で、
不還とは「六欲界」に戻らないことを言うのだから、
「神聖天(梵天)」までは行けるだろう、という考え方のようですね。

しかし、「神聖天(梵天)」に行ったとしても、「創世記」に出てくるように、
欲界への「転落(落下)」の可能性は残っています。
とすれば、これでは、本当の「不還」とは言えないでしょうね。

ですから、オウムでは「不還」に対する考え方(解釈)が「間違っている」のです。


> 一方では、在家の仏弟子のナンダマーターは四禅まで到達したと書いてあります。
> また、五下分結を捨断しているとか。
> 四向四果で言うと、不還ぐらいかな?

「四禅定」まで修している、ということは、「色究境天まで行ける」ということ。
ここですでに、「梵天どまり」という「オウム説」は破綻してしまいますよね。

「還らない」というのは、「欲界に」ではなくて、
「苦しみの連鎖する世界(状態)」に、「不還」となった存在、なのです。
(「色界」も「無色界」も、一応、苦しみの世界の範疇に入ります。)

確かに、不還の状態では、まだ「煩悩」が残っています。
しかし、「明智(苦しみを苦しみであるとありのままに知る知力)」を得ているので、
それらは「苦しみの因」とはならずに「転変」するのです。

不還の状態になると、「煩悩」そのものを「瞬間(今、この一瞬)の楽」として、
純粋にその働きを「楽しむ」ことができるようになります。
これは、「刹那滅の楽」なので、未来への連鎖とはならずに、新しい因を造らないのです。

下記の文章は、私のブログの中の、「識別の停止」のコメントからの転載ですが、


        ※        ※        ※

不還になった段階では、外因の停止(遮断)は出来るようになりますが、
内因の消滅には、まだ至っていません。
従って、煩悩はまだ残っているのです。

------------------------------------------------------------------------------

◆ 12 二種の観察  ◆

私が聞いたところによると、
……或るとき尊師は、サーヴァッティーの(郊外にある)東園にある、
ミガーラ(長者)の母の宮殿のうちにとどまっておられた。
そのとき尊師(ブッダ)は、その定期的集会(布薩)の日、十五日、満月の夜に、
修行僧(比丘)の仲間に囲まれて、屋外に住しておられた。
さて、尊師は、仲間が沈黙しているのを見まわして、かれらに告げていわれた……

修行僧たちよ、善にして、尊く、出離を得させ、さとりにみちびく諸々の真理がある。
そなたたちが「善にして、尊く、出離を得させ、さとりにみちびく諸々の真理を聞くのは
何故であるか」と、もしだれかに問われたならば、
かれに対しては、次のように答えねばならぬ。
……「二種ずつの真理を如実に知るためである」と。
しからば、そなたたちのいう二種とは何であるのか、というならば、
「これは苦しみである。これは苦しみの原因である」というのが、一つの観察(法)である。
「これは苦しみの消滅に至る道である」というのが、第二の観察(法)である。
修行僧たちよ、このように二種(の観察法)を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれかの一つが期待され得る。

……すなわち、現世における「さとり」か、あるいは煩悩の残りがあるならば、
この迷いの生存に二度と戻らないこと「不還」である。……

尊師は、このように告げられた。そうして、幸せな師(ブッダ)は、
さらにまた次のように説かれた。

苦しみを知らず、また苦しみの生起するもとを知らず、
また苦しみのすべて残りなく滅びるところをも、
また苦しみの消滅に達する道をも知らない人々。

かれらは心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。
かれらは(輪廻を)終滅させることができない。
かれらは実に、生と老いとを受ける。

しかるに、苦しみを知り、また苦しみの生起するもとを知り、
また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り、
また苦しみの消滅に達する道を知った人々 ……

かれらは心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。
かれらは(輪廻を)終滅させることができる。
かれらは実に、生と老いとを受けることがない。

-------------------------------------------------------------------------------

上記の教典は、【ブッダのことば】スッタニパータ<中村 元訳> ですが、
ここで興味深いのは、

「あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないこと(不還)である」

という、この言葉。

不還は、煩悩は残っているが、迷いの生存には戻らない存在だ、と釈迦は言っている。
つまり、不還になると、煩悩は苦の因ではなくなる、と言っているのです。

そして、解脱には「智慧の解脱」と「心の解脱」がある、とも…

        ※        ※        ※


「不還」の段階で、すでに「此岸(苦しみの世界)」から離れて「彼岸」には至っているのです。
これが「慧解脱」の状態。外因から離れることが「自然にできる」という状態。
さらに進んで内因まで消滅させると「心解脱」の状態。
「慧解脱」と「心解脱」の二つが完成して「覚者」となるのです。
どちらか片方だけ(普通は、慧解脱が終了して心解脱が未了)では、まだ「不還」なのです。

つまり、最終目的地は、そこからもう少し先にあるのですが、一応「彼岸(苦しみのない世界)」へは、
すでに第一歩を踏み入れているのが「不還」なのです。


> 今のサマナはどうかというと、ナンダマーターにも及ばないんじゃないかと思ってしまいます。

多分、ね。


> ナンダマーターの話は「タターガタアビダンマ・第三誦品」に載っていますけど、
> 四天王天と自由に会話できるというレベルです。

この「四天王天と自由に会話できる」というのは、少し慎重に考える必要があると思います。
釈迦は弟子達に、かなり慎重に、これらに対する瞑想指導をしていたはずですから。
まぁ、ナンダマーターは出家修行者ではなくて、在家の人だったので、
そこまでの指導はしていなかったのかもしれませんけどね。


> でも、逆に、はまり込む人もいるでしょうな。

こうならないように気をつけないと、ね。
他人の「あら探し」だけをしていても、意味無いですから…

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