喫茶Honfleur掲示板 2007〜2009年

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Message#20030 2009年2月15日(日)18時36分
From: 和井 恵
変更
Re:真我
キャンディさんのメッセージ(#20021)への返事

> 結局、真我はある、という話になったの、、

この「ある」という言葉は、
何処かに「(認識の対象として)在る」という意味ですよね。
何処かを探せば見つけることが出来るモノだ…とね。

そう言う意味では、真我(自分そのもの)は、
「認識の対象外」なので、見つけることは出来ません。

目は、目そのものを見ることは出来ない。
刀は、刀自身を切ることは出来ない。

ですから、それを認識することが出来ない(不可知)という意味では、
「ある」とは言えないのです。

「我思う故に、我有り」という言葉があるけど、
思おうが、思うまいが、自分はいますよね。
思考を停止したら(思うことを止めてしまったら)、
じゃあ、自分はいなくなるのか?と言えば、そんなことは無いのです。
ただ、自分の存在を確認できる「何か(手がかり)」が消えてしまうだけ。

そうすると、自己喪失感に囚われてしまって不安になる(無明)。
そこで、自分を安心させてくれる「根拠」を探し始めるのです(行)。

そこから迷妄の連鎖が起きてしまうのです。

> 麻原の擁護がしたいわけ?
> 漏れが(麻原が真我が流転する)って説は
> 釈迦は無我を説いたのに、馬鹿じゃないの、って
> 散々こき下ろしたから、
> ムキになって
> 真我はあるんだ、って言ってた奴がいて
> 気に入らないんだけどね

彼の教え(真我に関する部分)は、仏教ではなくて、
「サーンキャ哲学」という、インド思想をアレンジして真似たものなのです。

それは「二元的多元論」と呼ばれているもので、存在するモノを、
主体(自己・知覚するモノ)と客体(他・知覚される対象)の二つに分け、
その主体自身も「個別的に」多数存在している、と考える思想なのです。

> だって、真我を知るっていったら、真我はあるって、定義なんでそ
> ちょっと、詳しい論議調べてないんでわかんないんだけど
> みなさんは、真我があるということにしたんだ?

「真我はあると定義する」と、間違い(誤解)を生じてしまうのです。

「ある」という言葉(概念)から生じる思考(認識・受け止め方)は、
「あるとすれば、それは何処かにあるに違いない」という、
心理的な「連鎖反応(条件反射的な連想)」を引き起こすのです。

そうすると、外界(現象世界)に対しては五感(眼・耳・鼻・舌・肌)で、
内界(心象世界)に対しては、六番目の感(意)を使って、
それ(真の自己)を確認したいという衝動(行)が生じてしまうのです。

「ある」とするならば、、それは「何処に」あるのだろうか?

という、間違った「思考の連鎖反応」に囚われ始めてしまうのです。

> じゃあ、麻原が(真我がニルバーナから落下して流転する)とした
> 定義に、異論はないということなの?
> 漏れは、麻原が仏教理解があまりないのに適当にヨガとかとくっ付けて
> 自分のわかりやすくアレンジしたと思いましたよ

キャンディちゃんの考え方で、合っていると思いますよ。
その考え方が間違っていると、私は一言も言っていませんから。

> 少なくとも麻原はそこまで細かく考えるよりも
> 金もうけのためにわかりやすい説をとったと思っている

彼は、元々ヨガ行者でしょ?
ヨガの根本経典を頼りに修行をしたと言っていましたよね。

それが途中から、仏教を取り入れて、
自己流にアレンジして教えを説き始めるようになった…

> まあ、釈迦は、形而上のことは語らないというやり方をして
> んなことは知らなくても、苦はあり、苦は起き上がるから消滅させておけ
> 目のある人はそれだけやればいいんだ、と
> 言ったようで

まぁ、似たようなことは言ってましたよね、確かに。

> だって、あるとか、ないとかギャアギャアいうけど
> 見たことがねえよ、と普通は言うが、麻原の家では(アタシは見た)って奴がいるわけ、、
> 麻原は真我を見たって
> あそこで丸くなって大きくなったり小さくなったりしていたって

それが事実だとすれば、その時点で、
彼は、釈迦の言っていたような「解脱」や「悟り」を得てはいなかった、
ということが言えるでしょうね、確実に。

瞑想の怖いところは、「見たいモノが見えてしまう」、
「体験したいことを体験できてしまう」ということなんです。
瞑想の対象となる「心象世界」を造り上げているのは、自分の心なのですから…

釈迦の言行録(アーガマ)を読んでみると、
彼の教えていた瞑想は、何かを「観る(体験する)」という瞑想ではなくて、
観た後で、それらの対象を一つ一つ消してゆく(そこから離脱する)瞑想を指導しています。

四禅定の第一段階では、まず「尋」と「伺」とを確認します。
そして、それを消す(離れる)と、次の「喜」が、より鮮明に顕れてくる。

太陽が見えていると、その光に遮断されて他のモノが見えずに太陽しか見えません。
しかし、その太陽を消すと、今度はそれまで見えなかった月が見えるようになります。
そしてさらに月を消すと、こんどは星がはきりと見えるようになる…

ひとつ説明をしておくと、四禅定は「色界の瞑想」ではありません。
深まっていく瞑想の状態を、四段階に分けて説明したものなのです。

だって、「尋」や「伺」、「喜」や「楽」といった、
四禅定の中で確認するそれらの要素に「形状(色や形)」などがあると思いますか?
まぁ、「ある」と思うと、それが見えてしまうのかも知れませんね。

私は、色界の瞑想とは、四禅定とは別のもの(他の瞑想法のこと)だと考えています。

四禅定から四無色定へそのまま移行することは出来ません。
四禅定の第四段階の次の段階で、「空無辺処」が顕れて来るわけでは無いのです。

四無色定の「空無辺処」へと移行するためには、
「四大(地・水・火・風)の瞑想」から入る必要があるのです。

地 → 水 → 火 → 風 そして、→ 空 なのです。
(これらの4つの「元素」には、それぞれ特有の「色」があるとされているのです。)

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