喫茶Honfleur掲示板 2007〜2009年
タイトル
画像
Message#
から前
200
100
50
10
件を
97
98
99
00
01
02
03
04
05
06
07
08
09
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
年
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
月
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
日から
1日分
2日分
3日分
4日分
5日分
7日分
10日分
前を
最新20件
最新50件
最新100件
最新200件
200件以前
昨日以降
(0)
2日前以降
(0)
3日前以降
(0)
4日前以降
(0)
5日前以降
(0)
リンク
タイトル
画像
サーチ
携帯モード
セットアップ
Message#22235 2009年6月6日(土)13時39分
From:
和井 恵
変更
釈迦が説いた世界観、「一切経」。
アーガマの中の一つ、「サンユッタ・ニカーヤ」には、
「一切」と名付けられた短い教典が収められています。
みなさん、わたしは「一切」について話そうと思います。
よく聞いて下さい。「一切」とは、みなさん、いったい何でしょうか。
それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、
鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、
身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。
これが「一切」と呼ばれるものです。
誰かがこの「一切」を否定し、
これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、
それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないでしょう。
さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、
病に倒れてしまうかも知れません。何故でしょうか。
何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。
(Sanyutta-Nikaya 33.1.3)
釈迦の説いた「世界(一切)」とは、
「六つの感覚器官(六処)」を通して認識出来る領域です。
そして、私たちがこれ以外に「認識できる対象世界」は存在しません。
眼 … 視覚によって知覚できる世界(眼識、光と色で構成される)
耳 … 聴覚によって知覚できる世界(耳識、音によって構成される)
鼻 … 嗅覚によって知覚できる世界(鼻識、匂いによって構成される)
舌 … 味覚によって知覚できる世界(舌識、味によって構成される)
身 … 触覚によって知覚できる世界(身識、感触によって構成される)
意 … 心の感受作用によって知覚できる世界
(意識、表象を伴うものと、伴わないものによって構成される)
そして、五感によって知覚される、
光(色)と音と匂いと味と感触によって形作られた世界、
これを「欲界(欲動の対象となる世界)」と名付けたのです。
また、心の働きによって生起する認識対象を、
表象(形のある)を伴う場合は「色界」と名付け、
それらの伴わない微細なものを「無色界」と名付けたのです。
これが「三界(欲界・色界・無色界)」の最もシンプルな説明です。
釈迦が説いていた頃は、このような簡単な内容だったのです。
(それが、部派仏教の時代になると様々な解釈、注釈が付け加えられ
難解で分かりづらいものになっていってしまったのです。)
※以上が、私のgooブログの日記からの転載です。
----------------------------------------------------------------
釈迦は、出家をしてすぐに、二人の師の元へ赴いて、
「無所有処」と「非想非非想」の二つの瞑想状態を体得しています。
しかし、「これらは苦の滅尽に至る道ではない」として、
すぐに、それらの意識状態を捨てているのです。
釈迦の説いた三界とは、何を基準にして語られているのでしょうか?
それらは霊的ステージの高い低いではありません。
単純に、「苦しみが多いか、少ないか」で語られているのです。
欲界とは、「五妙欲」に囚われた世界(意識状態)だということ。
五官とその対象(眼・耳・鼻・舌・身と眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)
苦しみの因となる「囚われの対象」が、それだけ多いのです。
そしてこれは「五蘊」と対応させてみると、最初の三つがこれに当たります。
つまり、欲界は、「色(身体)」と「受」と「想」に対応するのです。
これに対して、色界と無色界は、第6番目の感覚器官とその対象
つまり、「意と意識」に属するので、「受」と「想」のみになるのです。
そして、無色界は、「色(表象)」が無い分だけ、
囚われる対象(苦の因)が少なくなっている、ということ。
つまりこれらは「苦を生起させる因・対象」の、
増減によって語られた「意識状態の種類」なのです。
(しかしこれらは、あくまでも一時的な増減であって、滅には至りません)
色界も無色界も、これを「五蘊」と対応してみると、
「受(の中の意)」と「想(想起されるモノ、意識世界)」に当たるのです。
ですから、「無所有処」も「非想非非想」も、
「自我を構成する五つの集まり」の中の一つ、「想」の範疇に入るのです。
(ちなみに、過去世の記憶も、この想の領域に属します)
「小空経」の訳を下記に示しますが、
http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/sunna.html
ここでは明確に「無所有処についての想い」「非想非非想処についての想い」
という訳語が使われています。
これを「十結」と対応させると、「五下分結」が欲界に対応し、
「色貪」が色界、「無色貪」が無色界に対応するのです。
そして、無明の次にある「慢」が、優劣を生起させる…
つまり、高い世界・低い世界、高いステージ・低いステージという認識(分別)をね。
釈迦は、五蘊無我(非我)を説いています。
もし、自己や世界をあるがままに観察し、
「これはわれに属するものではない、これはわれではない、
これはわれのアートマンではない」と知るならば、
自己や世界に関する誤った見方を捨てることができるであろう。
(マッジマニカーヤ 8:3)
仏教の世界観(ただし釈迦の教えでは無い)で「遊ぶ」のは自由ですが、
もし、それらに囚われているのだとするならば、
解脱・悟りへと至ることは、永遠に不可能だと思います。
最新20件
最新50件
最新100件
最新200件
200件以前
昨日以降
2日前以降
3日前以降
4日前以降
5日前以降
nerimb5.cgi Ver. 5.043
Copyright(C) 1997-2008,
hidekik.com
当掲示板の内容は全て冗談です。冗談を解する方のみ閲覧してください。