喫茶Honfleur掲示板 2007〜2009年
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Message#22262 2009年6月7日(日)08時12分
From:
和井 恵
変更
Re2:釈迦が説いた世界観、「一切経」。
아벨(AbelAbel)さんのメッセージ(
#22255
)への返事
> 最後の「意」ってのは非常にグレ〜ではないかって気がするのですが・・・
グレーというか、他の五官と比べて解りにくいでしょうね。
ですから、その働きを明確に知るために「瞑想」訓練をするのです。
瞑想とは本来、それ以上でもそれ以下でもありません。
「何か特別なこと」を体験するためのモノでは無いのです。
少なくとも、釈迦の教えではね。
体験をするのではなくて、体験(感受)をする「要素」を滅してゆくのです。
(ですから、最後に「想受滅」が来るのです)
譬えば、ここに「家(自我)」があって、「窓(五感)」から外を眺めている。
しかし、そこから観える「外界」には真実(苦を滅するモノ)」が無いと知って、
今度はその反対の「内窓(第六感・意)」から、「内庭」の風景を眺めたとしても、
結局は、それらは共に「同じ」観察対象であることに変わりはないのです。
外界(現象世界)にしろ、内界(精神世界)にしろ、それらは全て、
「無常(無自性)」であり、「縁起(相互依存・相対性)」に支配された、
苦しみを創り出す「因・囚われの対象」にしか過ぎないのですから。
前世の記憶というのも同じこと。
それらは単なる「足跡(痕跡)」にしか過ぎません。
五蘊の中の「想・想起されたモノ」にしか過ぎないのです。
ですから、それらに囚われたままでは、解脱・悟りを得ることは難しいと思いますね。
アーガマの中の「沙門果経」には、色々な神通(宿命通など)が描かれていますが、
あれは、出家者を対象として語られたモノではありません。
いわゆる教団のスポンサーとなりうるような、世俗の王様に語っている内容なのです。
つまり、相手が知りたいこと、興味のあることを加味して、味付けして語られています。
要するに、一般の世俗的な人を対象とした「方便の教え」なのです。
しかしそれら五蘊を「我(われ)」あるいは「我がモノ(所有)」と観てしまう…
五上分結は、色貪・無色貪・掉挙・慢・無明ですが、
「色貪」が、つまり「色界(表象のある意識世界)」への囚われを表し、
「無色貪」が、「無色界(表象のある意識世界)」への囚われを表します。
そしてこれらは、五蘊の中の「想(想起作用・想起されたモノ)」と対応します。
それに対して掉挙は、「行(形成作用・薫習・習気)」と対応し、
慢は、「識(識別作用・分別)」と対応するのです。
それでは、無明は?
無明は、五蘊を「我(われ)」あるいは「我がモノ(所有)」と誤認させる、
根源的な働きを表しているのです。
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