喫茶Honfleur掲示板 2007〜2009年
タイトル
画像
Message#
から前
200
100
50
10
件を
97
98
99
00
01
02
03
04
05
06
07
08
09
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
年
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
月
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
日から
1日分
2日分
3日分
4日分
5日分
7日分
10日分
前を
最新20件
最新50件
最新100件
最新200件
200件以前
昨日以降
(0)
2日前以降
(0)
3日前以降
(0)
4日前以降
(0)
5日前以降
(0)
リンク
タイトル
画像
サーチ
携帯モード
セットアップ
Message#22311 2009年6月8日(月)20時00分
From:
PC壊れたので友達のPC借りながら@元芝
変更
なんだか面白い記事だったので
野田さんのブログ
コメントより
『生成と収束』
「光あれ」のひと言で世界が動き出し、「諸行無常の響きあり」と詠い世界が沈黙する。
生成と収束
仏教にはこの両方が揃っている。
精神至上の世界観から見れば、科学(≒物質)至上主義は悪魔でしかない。逆から見れば精神の測定不能な領域は打ち破るべき対象でしかない。
でも「敵を愛せよ」両者は結局一体であってこそ自由がもたらされる。
| 200906-08 19:40:19 | 二拍子 #bpaDcD86
このうち
生成と収束
仏教にはこの両方が揃っている。
には
生成と収束、そしてその両方が静まり返りかつ働き出す寸前の姿、絶妙なる神秘の間隙、「無」(あるいは空)
仏教にはこの3つが揃っている。
と最近思うようになった。
精神至上主義と科学至上主義は敵対してもいいと思う。
変にお互いの共通点や妥協点など探さなくてもいいように思う。
相反する二つがぶつかり合うことで世界はダイナミックに変化していくのだから。
と最近思う。
人間は自分の世界の安定を望む習性がある。
だから「生成と収束」と捉えるのではないだろうか?
まさか自分の知る世界が、あるいは存在に「無」があるとは思いたくないのではないのだろうか?
相反する二つのぶつかり合いによる世界のダイナミックな変動・多様なる動きを避けるがゆえに共通点や妥協点を探り融和させることで安定を求めるのではなかろうか?
この世は無常。
世界は変動し多様に変化する。
これは絶対に避けられない。
もちろんこの二つはお互いを補完するものでもあることは否定しません。
でもまだそのモードではなく「相反モード」なんじゃないかなぁ。
今の我々の世界では。
最新20件
最新50件
最新100件
最新200件
200件以前
昨日以降
2日前以降
3日前以降
4日前以降
5日前以降
nerimb5.cgi Ver. 5.043
Copyright(C) 1997-2008,
hidekik.com
当掲示板の内容は全て冗談です。冗談を解する方のみ閲覧してください。