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Message#26985 2009年9月19日(土)12時15分
From:
てんさいくん55号
変更
印仏板から転載
3971 返信 Re:チベット仏教研究の可能性を探る 大黒天 2009/09/19 02:36
こんばんは、大黒天です。
いちいちについて、意見を述べていくと煩雑になりすぎるので、
私なりの考えを書かせて頂きます。
チベット仏教を論理的視点では理解する事はおそらく不可能でしょう。
論理的視点はゲールク派が現在主流と思われている事がその原因であると思われますが、
ゲールクの考え方はむしろ他の三派に比べるとかなり、「特殊」です。
チベット仏教は基本的に「密教を基」にしています。
密教の三原則とは、
1.法身説法
2.果分可説
3.即身成仏
です。
しかし、チベット仏教の中で唯一この3つを説かないのが、
「ゲールク派」です。
現在、「現代人に分かりやすい」(ヨーロッパを中心に比較宗教学が
発達し論理学的思考で考察できるため)のと、ダライ・ラマ14世猊下が前面に出て
活動したためゲールク派が主流であると思われているのです。
また、チベット仏教はかつて五大宗派でしたが、ゲールク派がカーダム派を吸収(実際には
政敵であったため潰した)し、現代の四大宗派になりました。
このため、カーダム派の根本タントラであった『カーラ・チャクラ・タントラ』も
ゲールク派に吸収される事になったのです。
密教において修行を行わない者、資格のない者に潅頂を授けると潅頂を授けた者、授かった者
両方が金剛の地獄に落ちると言われていますが、「ポタラ」で潅頂を授けたチャンパ・リンポチェ(ゲールク派)は潅頂の時に、
「私も、貴方達も地獄に落ちるでしょう」と仰っておられます。
これは、密教の三原則がゲールク派にはない事を分かって仰せられているからで、
これほど、正直なお方はまず、いないでしょう。
学者と言われるいわゆる「研究者」は全て「筆授」(字面で理解する)を根拠として
学んでいますが、密教は全ての段階において、「写瓶」(一対一による伝授であたかも
器から器に水を移し替えるが如く)行われます。
ここが約1300年前空海と最澄がたもとを別った理由でもあります。
密教はいくら本を何万冊、何十万冊読んだからといって理解できるものではなのです。
これが、「伝統」というものです。
しかし、正しい潅頂(この場合の潅頂とは広義の意味の潅頂で、いわゆる「儀式」のみを
指すものではありません)を受ける事が出来、正しく学ぶ事が出来れば、誰でも理解出来ます。か
良くも悪くもそれが「伝統」なのです。
それでは、正しい潅頂とは何でしょうか?
潅頂とは三つのもので構成されています。
1.ワン(狭義の意味の潅頂)
2.ルン
3.ティ
ワンはものすご〜く、大ざっぱに言えば、
仏教徒としての戒律をいただき、誓いを立てる。それから、
本尊の曼荼羅に招き入れてもらい、それによって縁をいただき、
一切衆生のために縁をいただいた本尊の修行を行う事を誓う。
つまり、「仏教徒」ではない者には潅頂は与えられない!のです。
では、今現在、日本のみならず、世界中で行われているものはいったいなに!?
という素朴な、そして根本的な疑問が出てくると思います。
はっきり言います。
「営業」です。
戒律を与えないで行うものは「法楽」と言われるもので、潅頂壇に本尊をお迎えして、
『讃嘆偈』『供養誦』等々(あんたはえらい/あんたが大将)をお唱えし、
そのおさがりで、「仏縁がいつかついたらいいなぁ〜」ってなくらいのもの。
マントラの伝授がある場合もありますが、元々、「ドルジュエー・ロプン」(金剛阿闍梨)は
な〜もなくても、請われればどんなマントラも伝授出来る資格を持っていますから、
ある意味潅頂あるなしは関係なく、戒律に抵触する事無く、伝授可能なわけです。
もちろん、正式に潅頂を受けた者との効果の差は密教を信仰する立場からは、歴然とした差があります。
ルンはこれら行う伝授を受けた経典を潅頂を授けた者師より聴く事。
ティはその経典の解説。本来は師より直接受ける事が理想であるが、師が忙しい場合は、師の許可を受けた者が代わって行う事も出来る。いわゆる「先達」(兄弟子/先輩)が行うのが一般的です。
この三つが揃ってはじめて「正しい潅頂」と言えます。
現在、チベット語の大蔵経典のみならず、英語の翻訳書も含めて「書物」として出ているものは
全て、「在家向け」の内容しか書かれていません。
正確に言えばどんなに教えを乞うたとしても、在家向けの話しか決してしません。
出家した僧侶さえ寺を受け継ぐ者とその側近の数名だけが本当に伝統的な、
筋の通った法脈を受け継ぐ事が出来るのです。
300人中3〜4人。特別な転生者がいる寺院ではもう少し増えますが、
全体の流れを完全に把握している者は多くて5人です。
出家者用の成就法、修行法と在家用に配布されるものは、内容も解説も
全く違うものです。
特に経典の内容については、一見しただけでは絶対わからないようになっており、
内容を「わかって聞かないと教えない」のが伝統です。
つまり、実践を行った者でないと、先に進めないシステムになっているのが伝統です。
たとえば、カギュ派を例に戒律に抵触しない程度にすこしだけ話すと、
日本とは全く違う「阿字観」を最初にならいますが、本尊は四臂観音です。
また、マハーカーラの潅頂と「へいかん行」(いわゆる「お籠り」)も必須です。
マハーカーラの本地は観音なので当然です。
これで、成就の相が現れないと決して「ナーローの六法」には進めません。
ちなみに仮に伝授を受けて進んだとしてもここをクリアしてないと、
行法だけ行っても何の意味もありません。
観音の智慧とマハーカーラの智慧。
根源的な智慧の働き、現れとは何かを理解する事を要求されます。
また、ある程度の体得(見性)も要求されるのです。
また、それまでにいくつか受けておかなければいけない、必須となる潅頂がありますが、
カルマ・カギュ、ディクン・カギュなど派によってそれぞれ変わってくるのですが、
これがないと、事実上行法が実行できない構造になっています。
これだけでは何が何だか分からないでしょうがこれ以上詳しい内容は
言えません。
ちなみにこれは公開されている事なのでご存知かもしれませんが、
カルマ・カギュ(両方ともに)では、三年三カ月のリトリートに最低1回は
入らないと阿闍梨潅頂を受ける資格はなく(つまり金剛阿闍梨ではない)、
従って、潅頂を行う資格もないという事になります。
伝統は何重にも安全装置が掛っていて、実践した者が実践した者の口伝によってしか
真実を知ることが出来ない構造になっているのです。
最低限の知識は実践のためには必要ですが、それも、時と場合によります。
人によっては実践のみでたどり着く人もいるのですから。
ただ、知識のみでたどり着いた人はいません。
なぜなら、それは仏教的立場、もっと言ってしまえば、密教的立場から言わせてもらえば、
顕教は果分不可説が限界だからです。
つまり、顕教では「究極の真理は決して説く事は出来ない」わけですから。
傲慢不遜な駄文、乱文をお許しください。
大黒天
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