喫茶Honfleur掲示板 2007〜2009年
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Message#9904 2007年12月23日(日)21時10分
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아벨(Abel)
変更
今日は岡田茂吉 明主様のお誕生日
岡田茂吉神慈秀明会(世界救世教)教祖様がお書きになった「聖教書」を読んでたのですが
次のような文章が印象的でした。
まるで誰かとか、どこかの宗教団体の修行者の方たちのことみたい(笑)
<b>観音信仰</b>
人間生活において何事もそうであるが、特に観音信仰においては円転滑脱自由無碍でなくてはいけない。円転とは丸いがまま転がるという意味であるから、角があっては玉が転がらない。世間よくあの人は苦労人だから角が取れているというが、全くその通りである。ところが世の中には角どこではない金平糖のような人間がいる。こういうのは転がるどころか、角が突っかかってどうにもならない。そうかと思うと自分で型を作ってその中へ入り込み苦しむ人もある。それも自分だけならまだよいが、他人までもその型の中へ押し込んで苦しませるのをいいと思う人があるが、これらは小乗的信仰によくある型で、所謂封建的でもある。こういうやり方は信仰の上ばかりではない。社会生活においてもかび臭くて、鼻もちがならない。
そうして自由無碍という事は型や枠を作らない。戒律もない、天空海闊の自由で、無碍もそういう意味である。ただ自由といっても我儘主義ではない。人の自由も尊重することは勿論である。観音信仰は大乗信仰であるから、戒律信仰とはよほど違う点がある。しかし戒律信仰は、戒律が厳しいからなかなか守れない。止むなくつい上っ面だけ守って陰では息つきをやるという事になる。つまり裏表ができるわけでそこに破綻を生ずる。と共に虚偽が生まれるから悪になる。この理によって小乗信仰の人は表面が善で、内面は悪になるのである。それに引き換え大乗信仰は人間の自由を尊重するからいつも気持が楽で、明朗で、裏表などの必要がない。従って、虚偽も生まれないというわけで、これが本当の観音信仰であり、有難いところである。
また小乗の人は不知不識虚偽に陥るから衒いたがる、偉くみせたがる。これが臭気紛々たる味噌になって甚だ醜いのである。そればかりか却って逆効果になり、偉く見えなくなるものである。小人というのはこういう型の人である。またこういう事がある。私は普請話をする時にはいつも職方と意見が違う。どういうわけかというと、職方はただ立派に見せようとするので、それが一種の嫌みになるから私は直させる。人間も右と同様で偉く見せないようにする人は全てが謙遜となり、奥ゆかしく見えるから、そういう人は心から尊敬されるようになる。故に観音信仰者は心から尊敬される人にならなければならないのである。
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