さくらさんのメッセージ(#23870)への返事 > そうなんですか〜。 > ちょっと嬉しいです。(*^^*) > プラス面はちょっとは当てはまることもあるけど、あんまし表に出てないかも。 そりゃ普通プラスもマイナスも現われかたは混合しているし個人それぞれだから。 > さくら冥想のとき仏像になったら嬉しかったですよ〜。 > あ、仏像って思ったら、冥想からさめちゃったけど。 これがサットヴァ優勢の人だと 「自分は仏になった!解脱した!」 とかやりだすんです。 どっかの誰かみたいに神々の示唆とか言い出して自分の心が生み出している幻に支配されるようになる。 変な数字とかだしてね。 > > 冥想で仏様とか神様とか出てきたら、刀で切ってしまえっ > ての知らなかったから > 今度出てきたら刀で切ろうと思って楽しみにしてるんだけど。 まあ、それは極端な話なんだけど、普通は何も反応せずに通り過ぎるのを待つ。 これが一番です。 > > ところで、お中元さんのレスに関連して > この世が幻なら自分の性質も好意の経験の集積から成り立っているから > 冥想によって想念を消すことで、変わる可能性があると思いますが、いかがでしょうか? > 説明難しいけどそれだけではなくて他人の自分についての想念も消さないと無理じゃないかな? 「あの人はこういう人」っていう他人の想念を消さないとね。 > それと、この世が幻なら、 > 現世をリアルに感じることも、魔境状態も似たようなものじゃないかと思うのですが > いかがですか? うん。 だから解脱するまでは誰もが魔境と言ってもいい。 でも、「魔境」は何が違うかというと「自我の増大」「増上慢」「特殊な体験に囚われる」などが現われるのを「魔境」と言っているのです。 あるお話があります。 あるラマが多くの弟子を集めて法会を行いました。そのラマは法を説きましたが、出家の弟子も在家の弟子も説法を聞いて深く帰依しました。 そこへある弟子が来て「私はマントラを唱えていますが、日夜怠ることなく行ったところ、この身が光明を放つようになりました」と言ったそうです。 ラマは叱責をされて「その光明が炎となってお前の身を焼くだろう」と言ったそうです。 その弟子は納得して退いた。と。 つまり、こういう大勢の人がいるところに来て自分自身の修行成果を語るなど「特殊な体験への囚われ」でそれをたよりに自慢し、自ら自身の名声を得んとする言動行動になっている。つまりは「増上慢」の「煩悩」であると。 要するに驕り、それで自己を喧伝するということは絶対にあってはならないことであり、修行とは「陰徳」で、陰徳というのは、表に出さなくても必ず修行の継続は「聖」なる結果を生み出す、修行は「質」であってそれは静かに押し殺して自らを養うことだということです。 > 現世に存在しながら違う世界にリアリティを感じるのは > 現世での生活上のデメリットはあると思いますが、 > > 魔境状態と、本質の状態との違いはどうやって見分けているのですか? 徹底した「否定」だけが真実を見分けます。 |