私が信者で、麻原尊師に帰依しており、 自分らの団体を攻撃する者を殺害せよと指示されたら、 悩むことなく従います。 私が公安で、長官に帰依しており、 自分らの社会を攻撃する団体の信者を殺害せよと指示されたら、 悩むことなく従います。 私が米兵で、国家と大統領に帰依しており、 自分らを攻撃する敵国を空爆せよと指示されたら、 悩むことなく従います。 これは修行でも何でもなくて、当たり前のことでしょう。 いつの時代も、どこの世界でも、当たり前に為されている。 帰依の対象が実は悪だったとか、 自分が殺害・攻撃した相手が、実は無罪だったとか、 後で判明することがある。 しかし、その時、その時に、真剣に努力していたなら、 本人にとってそんなことは全く問題じゃなと思います。 個人の人生や、国家の行く末など、大局的な事柄というものは、 すでに神々によって大方決められているものだと感じるからです。 それを、「妄信せず、理性的で科学的検証をして善悪の判断をしていれば…」、 などと言うのは、人間の思い上がりではないでしょうか。 第二次世界大戦中に参戦した兵士だからと言って、 「悪の帝国主義に帰依し、殺生した極悪人であり、全員地獄行き決定」、 「なんでその時代の流れをよく分析しなかったのか」、 「大勢の兵士や国民をミスリードした指導者こそが悪い」、 と断ずることは、強引な論理展開だと思います。 その出来事に行き着くまでの(神々が計画・実現された)壮大な流れを無視し、 一部分だけを切り取った上での歴史認識だからです。 しかし、悪行が正当化されるべきではないと、もちろん思います。 また、過ちを反省し、前に進もうとすることは、素晴らしいことでしょう。 少なくても、諸々の煩悩を交えていると、過去の出来事を正当に評価することは 非常に難しいでしょうね。 つい、煩悩が好むシチュエーションのみを上手に切り取って、 それをもって全てを評価できると思いたくなる。 |