さくらさんのメッセージ(#24419)への返事 > 受け入れる事(肯定ではない)は > 例えば > あなたはそう思うんですね。 > って事でOK? 宗教者が「受け入れる」といった概念を持ち出す場合は、 嫌悪などによって跳ね返してきた対象を、嫌悪を抱かずに、 慈悲や慈愛をもって認識できている状態に至る“経緯”を指す場合が 多いように感じます。僕もそういうつもりで使っています。 「あなたはそう思うんですね」は、心理士っぽい無機的な認識状態を感じさせますね。 これもやはり、前までは嫌悪して跳ね返していた対象のことを、 「あなたはそう思うんですね」と冷静に認識できるようになれたのならば、 それは「受け入れる」という経緯がそこに生じていたと考えられるでしょう。 > あと、信じるってどうゆ〜意味で使ってますか? それはもちろん、基本的には、「前まではそのように思っていなかった事柄について、 今後はそのように認識するように改める際の心理的変化を為すこと」みたいな感じです。 前の投稿で述べた、受容と関係している云々というのは、 「信じられない心の状態」が、<B>「そのような認識状態になることを拒む状態」</B>と言うか、 あるカルマについて、経験し、浄化し、克服し終わっていた場合、 同じカルマが生じるような場面に至っても、とらわれることがないというか、 透明な心がその対象をすんなり通過させられるような現象がありますよね。 逆に、まだ克服し終わっていない場合は、そのカルマが生じるような場面に至った際、 心がそれをすんなりと通過させることができず、ある人は、 心の中に入らないように嫌悪で跳ね返す、 つまり<B>「そのような認識状態になることを拒む状態」</B>であると言えそうな気がします。 例えば、麻原開祖を全肯定している方でしたら、 「麻原開祖が激しい悪業を積んでいる」という事柄を、それが事実か否かは別として、 それを単に心に思い浮かべるという作業を拒む状態や、 もしくは、麻原開祖を全否定している方や、宗教が嫌いな日本人などでしたら、 「麻原開祖が激しい善業を積んでいる」という事柄を、 それが事実か否かは別として、それを単に心に思い浮かべるという作業を拒む状態。 これらの状態から、すんなりと「ああ、もちろんそういうこともあり得るよね」と、 達観したような認識状態に至る際に、宗教者が使用する心理的手段が、“信仰”かな、と感じます。 否定的な観念を崩壊させる際、肯定的な観念をぶつけることで、 肯定の観念も、否定の観念も、どちらも崩壊させ、純化するような感じです。 麻原開祖について激しく否定的な、受け入れがたい認識状態の方は、 肯定的な観念をぶつけるほどに、否定的な観念が崩壊していくかもしれません。 麻原開祖について激しく肯定的な、つまり「開祖が劣った存在だ」という形のイメージは 到底受け入れがたい、という認識状態の方でしたら、 「開祖が劣った存在だ」という認識を肯定する観念を次々とぶつけていくほどに。 そして最終的には、「その人がどのような形態を伴っていても、自分は構わない」、 さらには、「その人に限定せず、ありとあらゆる人がどのような形態を伴っていても、 自分は構わない」といった無限定、無条件に全てを受け入れられるような、 永遠に広がったような心の状態に至るんじゃないかな、というイメージが僕にあります。 さらなる長文、失礼いたしました。 |