本年も普通に本音だけ書きます。 よろしくお願いいたします。 お布施はやりたい人がやればいいんです。 それに有償とか無償とかナンセンスです。 有償だろうと無償だろうとそんなことは関係無しにやりたい人がやればいい。やりたくなければやらなければいいんです。 功徳とか来世とかは布施を受ける側が「保証」するものでは無い。為した行為が縁によって未来のいずれかの生のいずれかのタイミングで実を結び結果となるだけ。その生やタイミングや縁を基本的には選ぶことはできません。 だから功徳を積むと言っても何かを期待することはエジプトの砂漠の砂の中からたった一粒を探し出すのと似ています。無駄です。 期待せず差し出す。 これが出来てはじめて期待通りになる。 これが真理の神聖矛盾ってヤツです。 また、有償とか無償とかではなく、在家の方の助力が必要だから布施を乞うているのであって、そういう意味でシンボルとして何らかの物品などの贈与は有りだとは思いますが、それはあくまで「感謝の印」であり、「これが欲しいなら相応の布施をなせ。それによりて下賜してしんぜよう」は宗教者としては死んでいると断じましょう。 つまり、オウム系団体(あるいは世のほとんどの宗教団体)はビジネス団体であって、宗教では無いと断じます。 まあ、そうは言っても存続のためにはお金は必要なのでそういう物品販売行為もいたしかたない、とも言えます。 等価交換は絶対原則ではないとはいえ強力な幻想ですからです。 だからこそそこには「無心(期待しない)」と「感謝(在家は出家に、出家は在家に)」が必要になる。 両者はスタイルが違うだけで誰が偉いとかは無い。 お布施に有償だとか無償だとか功徳だとか来世だとか期待だとかは ナンセンス 宗教者としてのセンスが無いってことです。 |