| ヨッシーさんのメッセージ(#3293)への返事
> http://www.bekkoame.ne.jp/i/sinzinrui/doc/ketui.htm > 決意3で強調される『観念』ですね。 > > バーラドヴァージャ師補 > 「ヨッシーさんは妙な観念に侵されている。そんな人間には真理を話しても無駄で誤解を生むだけだから話すことは何もない。私はもう何も言わない。」 > > もっとも漏れが観念である証明を香具師は出来なかったのですけどね?
この場合の「観念」という言葉の定義ははっきりしてます? ここでバーラドヴァージャ師補が「妙な観念」という言葉を使ったわけですが、 その背景には通常オウムで使われる「観念」の定義がありますよね。 そう、決意3の冒頭「一般的にいわれている善悪は観念であって正しくない」の 観念です。
もともと国語としての観念というのは、 「ものごとに対する考え」とか「主観的なイメージ」とかいう意味を持っていますが、 オウムで「それは観念だ」と言った場合、だいたいは前者の、 しかも自分の行動を規制している固定的な考え方、 つまり一般的に「固定観念」と呼ばれているものを意味し、 そのニュアンスとしては、煩悩を肯定する方向性の考え方、 という若干特殊な定義づけがなされると思います。
もちろん修行に対して用いられる「真理」とやらも、 国語として考えればこれまた「観念」なのですが、 オウムで使う方便としてはおおまかに「真理」と「観念」のふたつにわかれていると。
結局ね、変な話だけれどもバーラドヴァージャ師補は、 「証明」なんてする必要はないと思います。(笑) なぜかというと、ヨッシーさんが何を言ったか知らないけど、 少なくとも教団からみて「真理である」と定義できるようなことは 要求していないと思うから。 教団式二元論で斬るならば、「真理でない」ならばそれは「観念」なのですよ。
例えば、今私は空腹で、今からご飯食べようと考えていますが、 これ、まあ普通ですよね?(時間的に普通かどうかは横に置くとして) ところが、オウムに言わせれば 「空腹だからといってご飯を食べること」も観念なら、 「それを当然だとか普通だとか思う心の働き」も観念になるわけです。 そして「空腹に耐える」とか、「餓鬼に供養する」とか、 修行としてもっともらしく感じられるような考え方をすると、 「観念じゃない」「真理だ」と言われるわけですな。 これがオウムで言う「観念」です。 そしてこれを国語で突っ込むならば、 「空腹だから耐えようとか供養しようとか思う心も、 また、それが真理だ、と思う心も観念じゃないのか?」と。 これが通常の「観念」とオウムの「観念」の定義の違いですね。
まとめると、オウムにおいては 「修行に対して否定的、また消極的な発言、考え方」 「煩悩破壊に対して寄与しない考え方」 これらを「観念」と呼ぶわけですね。
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