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Message#2063 2005年12月18日(日)12時54分 From: 和井 恵 | |
| 名前無し(記入忘れ?)さんのメッセージ(#2062)への返事
> 和井 恵さま >> 「だって、オウム(アーレフ)の修行(?)って、「記憶修習」でしょ? >> 要するに、「丸暗記する(データの詰め込み)」ですよね。 >> それらに対する「分析」も「検討」も「検証」も「理解」も、何もやってはいない。 >> だから、いつまで経っても「自立」できないのだと思います。」 > > 修行者は記憶修習にもとづいて正見解し正思惟に至る。 > 違いますか?
私は、「別の見解」を持っています。
「正念」は、パーリ語ではサムマー・サティ sammA-sati、 サンスクリット語ではサミヤク・スムリティ samyak-smRti と言いますが、 確かに「オウムの教義」で採用している「記憶修習」と同じように、 「念 smRti」という言葉 には、仏教用語では「記憶」という意味があります。
「記憶」には二種類の作用があります。 一つは物事を記憶する作用。 そして、もう一つは、その記憶したことを再生する・思い出す作用。
しかし、もう一つ別の「意味合い」があることをご存じでしょうか? それは、「気づく(正しく知覚する)」ということです。
これは、「知識」をもとにして、ある「見解」を身につけ、 それを基礎(ベース)として「思索する(思いこむ)」ということではありません。
それら(知識)を必要としない、全く別の「修行方法」が存在するのです。
考えてもご覧なさい。 釈迦は修行中、いったい「誰の教え」を「記憶修習」していたのですか? 彼は、「(観念や思いこみに囚われない)正しく(ありのままを)知覚する能力」を 開発し、育て、確定させる「方法」によって「真理」を自ら見いだしたのです。
…それにしても、貴方の考えは、「オウムの教え」とも違うのではありませんか?
> 修行者は記憶修習にもとづいて正見解し正思惟に至る。
というのであれば、「八聖道」の一番最初に置くべきなのは「正見解」ではなくて、 「正念」ということになってしまいますけど…
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