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Message#2158 2005年12月24日(土)12時20分 From: 和井 恵 | |
| あべるさんのメッセージ(#2156)への返事
>唯識派、中観派がその後どういうふうに >大乗仏教の発展(変質)に関係したのかっていうことは >恥ずかしながらよく理解してないし・・・
仏教史(変還の流れ)は、 「何故そのような思想が登場してきたのか?」 という「原因(理由)」が分かれば理解しやすいと思います。
部派仏教の二つの大きな間違い。 「業感縁起(縁起の間違った、時空列的・因果関係的な解釈)」と、 「五蘊」の構成要素としての「ダルマ」を、「実有」として捉えてしまう。 それらを正すために登場したのが、龍樹「空の思想」です。
つまり、「反動形成(軌道修正)」としての顕れ。
他にも一例を挙げると、 大乗仏教の「本覚思想(一切衆生、悉有仏性)」は、 これも部派仏教の「五性各別論(修行者の資質へのカースト的な考え方)」への 「アンチテーゼ」として仏教界に登場してきている、と私は考えています。
>ことに空の思想なんて難解そうで >到底頭で考えてわかるようなものではないのではないかという >食わず嫌いの恐怖感。
だって、今まで、「空」が何なのかを「理解」していない人たちが、 「分けの解らないこと」を「解らないままに」説明してきているでしょう? だから、「それらの解説を聞いてもサッパリ解らない」という「経験」を、 何回も繰り返し味わい続けて来ているのではありませんか? それが、「トラウマ」になっているからですよ(笑)
> 修業体験として中観派の説く意味での「空」を体験なさいましたでしょうか。
「空」と「縁起」は、「真理というコイン」の「裏・表」。 「別のもの」ではありません。 そしてそれは、「純粋な理」なのです。 それは「悟る」ものであって、「体験」するものではありません。
>ついに「第三の道(新しい、より現実的な瞑想法)」を見いだすのです。
と、私が以前レスした「より現実的な瞑想法」とは、 「“今ここにある現実”とは“違った何か”を体験する瞑想法」ではないのです。
極端なことを言えば、「瞑想」などしなくとも、「真理」は悟れます。
釈迦の最初の弟子たち(五比丘)は、 共同生活を続けながら、釈迦の「説明」を聞き続けるうちに、 自分達の「観念」や「認識」の間違いに気付いてゆくことで、 「悟った」のだと私は考えています。 つまり、「慧(理)解脱=悟り」の状態。
そして、「第三の道(新しい、より現実的な瞑想法)」は、 「悟る」ための方法ではなくて、 「解脱(苦しみの滅尽)」していくための実践なのです。
これは、「心解脱=煩悩を滅尽した心の状態」を獲得するための実践。
>オウムではマハーニルヴァーナ、 >シヴァといった一元・大我といった意味での空という使い方をしてたと思いますけど、 >それとは違った概念?
「概念」ではなくて「理(純粋理論)」。 そこには「曖昧さ」がありません。だから「如実知見」なのです。 ですから、チベット密教で説く「光明(空)」の体験、というのも、 優れた「修行法」なのでしょうが、「釈迦の教え」とは別のものだと考えています。
(つづく)
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