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Message#2159 2005年12月24日(土)12時56分 From: 和井 恵 | |
| Re: あべるさんへ 投稿者:和井 恵 - 2005/12/06(Tue) 12:33 No.232
オウムの「カルマ理論」の特徴は、 あたかもそれが「物理学的な法則」であるかのように捉えて説明しているんですね。 「作用と反作用」「反射」といった即物的な捉え方… しかし、そのように考えて理論的(客観的)に思考を進めていくと、 当然「やられたらやり返す」という『カルマの法則の裏バージョン』が考え方として出てくるのです。
この説明は、ボンちゃんには以前会ったときに何度か話しをしてるよね。 旧約聖書に出てくる『目には目を、歯には歯を』というのは、 『カルマの法則の裏バージョン』なんだ、って。
もっとも、仏教ではそのような「考え方」に陥らないように、 ある公理を設定して『封印』していますけど。 しかし、その公理を設定してしまったがために、 今度は結果的に「カルマの消滅」はありえず(他の人に転移するだけ)、 「苦の総量は一定(不変)」というパラドックス (救いようのない世界観)が生まれてしまっているのですけどね(笑)。
結論から言うと、「カルマの法則」とは「物理学的」に捉えるのではなくて 「心理学的」に捉えるのが正しい(安全な)考え方なのだと私は考えています。
●●●●さんへ-2 投稿者:和井 恵 投稿日:2005/12/10(Sat) 23:37 No.267
>それで、やられたらやり返す、という考え方においては、 >カルマの法則論なんていりませんよね。
いるいらないというよりも、「物理現象的」に考えを進めていくと、 そういう考え方も出てくるのです。
ちょっと詳しく説明してみましょう。
例えば、量子力学的な現象を例に挙げれば、 何もない(中和された)空間に、ある力を加えると、 相反する(あるいは相補的な)二つの粒子(場のエネルギー)が出現します。 プラスとマイナス、陰と陽。 そして、それらが衝突し、相殺(もしくは合一)し合って 「消滅(元のニュートラルな状態)」に戻るわけです。 これは、「始まり(生起)」と「終わり(消滅)」のある世界です。 そしてもちろん、始まり以前も以後も有るわけですから、 「無始の昔より…」という世界観と矛盾するわけでもありません。
これを「カルマ(形成作用)の法則」に当てはめて考えて見た場合、 どうなるでしょうか?
プラスのベクトルを持つ形成作用は、相手に影響を与えようとする力。 マイナスのベクトルを持つ形成作用は、 相手から影響を受けようとする力ということになります。
「為したことが返ってくる」ためには 「為されたことを返す」働きが無ければ成立しません。 「善」に「悪」が必要なように、 「浄」には「不浄」がなければ「成立」しないのです。 「縁起」というのは、もともと「相互依存(相補)関係」のことを指しますから、 この観点からも、仏教教理に反してはいないのです。
そして、この観点から考えれば、 当然「カルマの法則の裏バージョン」が出てきても、別におかしくはないのです。 「目には目を、歯には歯を」というと、恐ろしく感じるでしょうが、 しかしまたこれは、「善には善を」「誠意には誠意を」 「愛には愛を」にもなるわけですね。 その延長として、つまりは「相手の出方次第」で、 「平和の神々」にも「恐怖の神々」にも「変身」することが可能だという 「密教的な考え方」も出てきておかしくはない…
しかしこれは、「心理学的」に考えれば、 「暴力には暴力を」は当然「怨念(慣性の法則・あるいは後遺症)」が働きますから 「やったらやり返して終わり」というわけにはいかず、 「永遠の悪循環」に陥る危険性を当然孕(はら)んでいます。 まぁ、その逆は「永遠の好循環」なので、特に問題はないのですけどね。
(続く)
Re: ●●●●さんへ-2 投稿者:聖者ぼんちリンポチェ - 2005/12/11(Sun) 00:11 No.268
「物理学的」「心理学的」という見方の違いについて、 ちょっと質問があります。 どのような違いについてか、というと、 その見方において生じる「ニュアンス」の違いです。
ことに「心理学的」の方で 「悪循環」「好循環」という形で、 「悪(好ましくない)」「好(好ましい)」の 二元的表現をしてますよね? そこで質問になるわけですが、 これら二つの見方というのはそれぞれ、 どういう立場、即ち何を良しとし、何を悪しとする、 または良しとも悪しともしないのか、 また、その目指す(向かう)ところは何、 あるいはどういう状態であるのか、 ちょっと細かいニュアンスの質問ですが、 どうなんでしょう?
「心理学的」の話に入るところで、 「しかし」という言葉を和井恵さんは使ってますよね? そこである種のニュアンスを感じたものですから、 ちょっと引っかかってしまった次第です。
Re: ●●●●さんへ-2 投稿者:和井 恵 - 2005/12/11(Sun) 08:16 No.275
>その見方において生じる「ニュアンス」の違いです。
「ニュアンス」という意味合いが、よく解りません。 何か「情緒的な」感じ(印象)を受けてしまうのですけど… 私は「理論的」に話しを進めているつもりなので、 できれば日本語で解りやすく表現し直してみてください。 「曖昧(感覚的)」なまま話しを進めても、答えにくいので。
とりあえず、「物理学的」と「心理学的」の 捉え方の違いを説明すれば、 ベクトル(形成力)を造り出す「構成要素(諸条件)」が変わってくるでしょ?
物質の場合、普通は主体に「(能動的な)意志作用」を 「設定」しては考えないと思いますけど…
>どういう立場、即ち何を良しとし、何を悪しとする、 >または良しとも悪しともしないのか、
私は「仏教」の立場で話しをしています。
仏教の「カルマの法則」における基本原則は、 「善因楽果、悪因苦果」です。 つまり「善が楽に変化し、悪が苦を招く(異熟果)」という考え方。 「異熟果」とは、原因とは異なった性質の結果を生み出す、という意味です。 つまり「善因善果、悪因悪果」ではないのですね。 「苦楽」を基準に置いて「善悪」の判断をする、という風に捉えることもできるでしょう。
そして、仏教の最も重要な根本テーマは、 「私たちが今抱えている苦しみを滅するには どうすればいいのか?」という、この一点に尽きるのです。
ですから、「良し」とするのは「苦の消滅」であり、 「悪し」とするのは「苦の生起(あるいは持続)」です。 そして、「良しとも悪しともしない」のは、 それらに直接効力(影響力)を持たない「トリビア (役にたたない知識と形而上学的な空理空論)」のことだと考えています。
ですから、正確に突き詰めて言えば、 「好循環(好ましい連鎖反応)の結果生じる「楽」の裏側にも、 当然「潜在的な苦」が潜んでいるわけですが、今、そこまで細かく言い始めると、本題(今説明しようとしている流れ)から、脇道へ逸れていってしまうと思ったのです。 これは「功徳(善)を積む」という行為と関わってくる問題なのですから。
だから、とりあえずここでは「問題ない」ということにしておいて、 これについては、また別の機会があるでしょうから、その時に詳しく話しをするつもりでいました。 少なくとも、そのうち再開しようと考えている「真理研究会」の「メールマガジン」では、必ずするつもりです。 あれは、その為の「場」なのですからね。
「しかし」と書いたのは、ここまではいわば「序章(助走)」で、この後からが「本題」に入っていく予定なのです(笑)。
ちょっと時間が無くて、「尻切れトンボ」の文章になってしまっているために、混乱させてしまったようですね。 やっぱり、有る程度「量的にまとまってから」出した方がいいのかしら。
ここまでの話しは、ボンちゃんにも今まで直接会った時に何回か話をしていますよね。でもそれは、私が考えている「カルマ理論」のごく一部にしか過ぎないのです。 Re: ●●●●さんへ-2 投稿者:和井 恵 - 2005/12/11(Sun) 15:15 No.278
>「善」に「悪」が必要なように、
この部分の「善」と「悪」は、特に具体的な「何か」を指す言葉ではありません。 「浄」「不浄」も同じです。 私たちの「認識(主観)」や物事が「存在(客観)」するためには、 どうしても「必要最小条件」として、二つの「要素」が必要です。 「二元」の世界ですよね。
「コイン(硬貨)」には必ず「裏と表」が必要であり、 「表しかないコイン」などは存在しません。
禅問答にも「隻手の音」という喩え(?)がありますが、 「実態の掴めない(存在しない、あるいは認識できるはずのない)」妄想に囚われると、 どういう状態になってしまうのか、ということを相手に「実体験」させるための、 一種の「トリック」として使われているのだと私は理解しています。 そして、その「囚われ(苦しみ)」から「自力」で離れることが出来たとき、 一種の「悟り」が生まれるのですね。 まぁ、「マハームドラー」的な手法だと言えなくもない(笑)。
「闇夜のカラス(を見ている)」や「声なき声(を聞く)」も、同じ事。 見えないはずの物や音を、どうして「知覚(認識)」できるというのか? もし、それを認識しているのだとしたら、 それは単なる「妄想(妄念・錯覚)」にしかすぎないだろう。 仏教では、これらを「戯論」と呼んでいますが、 それらに対して釈迦は「無記」を通して相手にしていないわけです。
さらに「縁起」について言うならば、 「無明」と「行」は、このような「相補関係(相互依存関係)」として捉えるのが正しい、 というか、要するに「苦の滅尽」に役に立つのです。 時系列的に「無明」から「行」が生じる(生起する)、と捉えるのは、 実は間違い(問題解決に繋がらない謬見解)なのですね。 「原因と結果」といった「時間的な因果関係」ではありません。
「無明」が有れば「同時」に「行」が在り、 「行」が在れば「同時」に「無明」もある。
「無明」が無ければ「同時」に「行」も亡くなり、 「行」が亡くなれば「同時」に「無明」も滅尽する。
「苦の滅尽」は、「瞬間(今この一瞬)」に起きるのです。
これが、釈迦の説いた「縁起の法」の真の意味合いなのだと私は理解しています。
Re: ●●●●さんへ-2 投稿者:聖者ぼんちリンポチェ - 2005/12/11(Sun) 16:07 No.279
「同時に」か・・・ 般若心経の世界になってきましたな。(笑)
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