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Message#2308 2006年1月1日(日)08時58分
From: 和井 恵
 
「縁起の法」が示唆する修行方法。
新年、明けましておめでとうございます。
色々と用事が残っており、ようやく部屋に戻って参りました(笑)。

さて、それでは続きです。

さくらさんのメッセージ(#2294)への返事

> 和井 恵さんのメッセージ(#2293)への返事
>
> > 「無明」とは、単純に、「ある状態」を表しているのです。
> >
> > 「真っ暗闇で、何も見えない状態」。
> > 「自覚する(気づく)ことができない」という「盲目」の意識状態…
> >
> > 単純に、ただこれだけ。
>
> これは・・・
> シンプルなご説明ですね。

そう、「真理(純粋な理)」とは、すごく「シンプル」なのです。
決して「複雑」なものではありません。
それが理解できてしまえば、
もう「難しそう」だという「不安」はなくなるでしょ?


> > 「自覚する(気づく)ことが出来ない」から、
> > 自己の「潜在意識」から「囁(ささや)かれる」声なき指示に、
> > 「盲目的(自主的な選択・判断ができず)」に従ってしまい(無知)、
> > 「衝動的」な「欲求(貪・渇愛)」や「感情(憎悪)」に巻き込まれてしまう。
>
> 今まで何度も話の中に出てきたことですよね。
> それをもう少し細かく説明したってところでしょうか。
> 三毒というのが無知、貪・渇愛、憎悪なんですね。

そう、「無明」と「三毒」の基本的な関係がこれ。


> > 次に、これを「縁起」の観点から説明してみましょう。
>
> 縁起の原語 pratiitya-samutpaada の原意は、「因縁生起」の略と考えられ、「他との関係が縁となって生起すること」の意味で、関係の中の生起の意味である。この縁起という思想こそは、仏教の根本思想を示し、仏教教理の土台である。釈迦の証悟(さとり)の内容は、この縁起の理に他ならない。
>
> いよいよ核心部分ですね。

ここで問題なのが、「因縁」という言葉。

仏教では、「カルマ(業)の働き」を四つに分けて説明しています。
つまり、「因・縁。果・報」。
正確には「業因・業縁・業果・業報」と言いますが、
「原因」と「それを補助する条件」、そして「結果」と「その影響力」という、
「時系列的」な「推移(生起過程)」を顕します。

しかし、「縁起の法」をこのような観点(因縁生起)から「理解する」のは「間違い」なのです。

このような「解釈の仕方」を「業感縁起」と言います。
釈迦の死後、数百年を経てからの「部派仏教の時代」に登場してきた「解釈」の仕方なのです。

そして、一般に「縁起の法」と言えば「十二縁起」がすぐに「連想」されますが、
元々の「縁起の法」は、もっと「シンプル」なものでした。

「これ」有るが故に「これ」あり。
「これ」無ければ「これ」も無し。
「これ」生ずるときに「これ」が生じ、
「これ」滅すれば「これ」も滅す。

これが、「縁起の法」の最もシンプルな「方程式」だったのです。

釈迦の弟子で「智慧第一」と賞された「サーリプッタ」は、
弟弟子たちに「縁起の法」の「説明」を頼まれたとき、次のように説明しています。

「二つのワラの束」を想像してごらん。
それらはお互いに「人の形」をして、お互いを支え合って「立っている」。
しかし、そのうちの「どちらか一方」を「倒して」ごらん。
すると「残っていたもう片方」も、「自らの重み」に耐えきれずに「倒れてしまう」だろう。
「縁起」とは、そのような「関係」のことを指して言うのだよ。

私は、以前のレスで、このように言いました。

|さらに「縁起」について言うならば、
|「無明」と「行」は、
|このような「相補関係(相互依存関係)」として捉えるのが正しい、
|というか、要するに「苦の滅尽」に役に立つのです。
|時系列的に「無明」から「行」が生じる(生起する)、と捉えるのは、
|実は間違い(問題解決に繋がらない謬見解)なのですね。
|「原因と結果」といった「時間的な因果関係」ではありません。

|「無明」が有れば「同時」に「行」が在り、
|「行」が在れば「同時」に「無明」もある。

|「無明」が無ければ「同時」に「行」も亡くなり、
|「行」が亡くなれば「同時」に「無明」も滅尽する。

|「苦の滅尽」は、「瞬間(今この一瞬)」に起きるのです。

「縁起の法」とは「因果関係による生起の流れ」ではなくて
「存在するための条件分析」の方法なのです。
このポイントをまず、しっかりと理解して下さい。

そして、この「縁起の法」を「無明」と「三毒」の関係に当てはめてみると、

「無明(の状態)」と、「三毒(の心の偏り)」は、お互いを支え合って生起している。
従って、「無明」か「三毒」のとちらか片方を「消滅(静める)」させてしまえば、
「苦しみを生起させる条件」は無くなり、心は「滅尽の状態(ニルヴァーナ)」に至る。

「貪・渇愛」「怒り・憎悪」「盲目的な自律反射作用・無知」の三つのうちで、
もっとも影響力が強く「主役(メイン)」となるのは「貪・渇愛」です。
「求めて得られない」からこそ、「怒り」や「憎しみ」が増してくる。
「無知」の方は、むしろ「無明」から派生する心の状態です。

ですから、「苦を滅する」ための「アプローチ(修行)」の方法としては、
「無明」という「苦しみを生起させている側面」から滅していく方法と、
「貪・渇愛」という「もう片方の側面」からの、
心を「静める(あるいは、その囚われから離れる)」という
二つのやり方があるわけです。

「無明」の滅尽によって「慧解脱」があり、
「貪・渇愛」からの離脱によって「心解脱」があるのです。


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