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Message#2315 2006年1月1日(日)18時37分 From: 和井 恵 | |
| あべるさんのメッセージ(#2265)への返事
> > 「ポワ」は、基本的に「仏教(釈迦の教え)」ではないと考えています。 > > チベット密教を調べてみると、 > > その歴史の中で「暗黒の時代」があったようなのですね。 > > つまり、「派閥」同士の「戦い(殺し合い)」をしていた時期が… > > お互いを「法敵」として「呪詛」や「暗殺」を死合うという。 > > それらの「行為」を「正当化」するために生まれてきた「考え方」のような気がしています。 > > 呪殺したい相手が何人かいるのですけど(笑)、秘法とかは伝わってないんっすかねえ。 > 藁人形ならもってますけど、チベット密教お得意の呪殺方法はオウムでは秘儀としても > もってなかったんでしょうか。これなら殺人罪にはならないですよね(笑)。
「真言密教」には、「調伏法」というものがあります。 おそらくはこの中に、そのような「修法」も含まれているのではないでしょうか。 しかしまぁ、日本古来の「修験道」や「陰陽道」の流れが 「取り入れられて創られている」部分もありますから、 「仏教」本来の「流れ」ではないのでしょうけど… 「殺人罪」の立証は、難しいでしょうね(笑)。
> 釈迦の教えでない、というのは、膨大な経典の中のいずれを後世の創作と解釈し、 > どれを釈迦の教えが反映されたものかという解釈・判断の問題になるのでしょうが、 > 日蓮宗の坊さんが薙刀正師にやっつけられた(でしたっけ)ような教相判釈を、 > 五時教判ではなくて、自分の手で取捨選択するとすると、 > これは大変な作業になりますよね。
私は「学者」ではないので、そのような「面倒くさい」ことはしていません(笑)。 別に「アーガマ」の解釈に「頼っている」わけではないのです。
どちらかというと、「自分の推論」を「確認する」意味で「アーガマ」を読んでみると、 その考えを「証明するかのような記述」を発見するのです。 順序が「逆」なのです。 ある意味では「後付けの説明」だと言えなくもない(笑)。
> まあ大乗経典も釈迦の思想が反映されたもの、 > なんて説明が多くの初歩の書物にも見られるわけですが、 > 何をもって釈迦の教えとするか、 > そもそも釈迦の教えなら値打ちがあって釈迦の教えでないものは値打ちがないのか、 > なんてことにも。
「苦の滅尽に至る教え」と、その「有効な方法論(修行法)」を以て、 私は「釈迦の教えである」と考えています。 ですから、「アーガマ」で説いている「釈迦の教え」が、 「苦の滅尽」に「役に立たない」のであるならば、 私は迷うことなく「釈迦の教え」を捨て去るでしょう。
> > 釈迦の教えの中に、「高い世界(天界)に転生させる」ことが、 > > 「苦の滅尽へ至る道になる」という考え方は、まったくありません。 > > オウムが解釈・採用していたのがどの経典のどの部分がってことになるのでしょうけど、 > この前書いたように南伝大蔵経一式買うのも35マソとか膨大。玉石混交真偽大げさ等々 > 字面を鵜呑みにはできないのでしょうけど・・・。釈迦の教えには無いと断定される根拠 > は何でしょう。
「天界転生」は、「苦の滅尽に至る道」ではありません。
例えば、家賃6万円のアパートに住んでいた人が、 誰かの「コネ(ボア)」で「六本木ヒルズ」に住めるようになったとしましょう。 しかし彼は、もともと収入も少なく、蓄えもそれほど持ってはいませんでした。 すると、どうなりますか? 「蓄えを全部使い果たし、さらには借金を重ねたあげく」 最後には「ホームレス」になってしまうのではありませんか?
それの、「何処が」救済なのでしょうか?
> > 「道」とは「苦の滅尽に至る道」のことであり、 > > 目的地もまた、それ以外にはありません。 > > 「タントリズム(左道)」は、「苦の滅尽」ではなくて、 > > 「神通力」の「獲得」と関係のある「修行法」なのです。 > > 「方向性」が全然違います。 > > 上祐さんが最近しきりに説いておられる「心の解放」「幸福」への道って、 > 非常にわかりやすくて素晴らしいみたいですけど、 > クンダリニーヨーガの修行の方が面白そう、なんて質問した人があるらしくて、 > その答えは、それに偏ると「妖怪」を作るプロセスになってしまって > 幸福にはなれないよ(笑) ってことみたいでした。
面白い「見解」ですね(笑)。
> ところで唐突ですけど、薙刀正師は無我説と非我説についてどういうご体験をお持ちですか? > オウムのアートマン説に対してサーンキャ的と否定されていたと思いますが、薙刀正師の > ご解釈における「仏教」において、たとえばオウムの体験談において、心が止まったという > こと見ている別の意識なんて書かれてるものについては、たとえばご修行体験からはどの > ようにお感じになりますでしょうか。
私は、別に「瞑想」など入らなくても、「魔境」に入ると(笑)色々な体験をします。 「自分の行動を客観的に眺めている、もう一人の自分」というのも経験していますが、 別に「気にとめたこと」はありません。 「無視(気にしない)」しています。 「経験に囚われる」と、そこから新しい「魔境」が始まる危険性があるからです。
> > 「親鸞聖人」が生きておられた頃の、 > > どうしようもない「社会事情」や「人々の資質・事情」と、 > > 現在とは、まったく「条件」が違います。 > > 人間の心の罪深さ、心の内面における汚れといった面では、どの時代の人間でも「原罪」 > としか言いようのないような罪深さに流れる傾向を持っているのではないでしょうか? > 心の面ではひょっとすると現代人の方が一層罪深いのでは? 昔の人の心がどんなだったか > わからないですが。
「士農工商」といったカースト制度に縛られ、「教育」も受けられず、 ただ、日々の生活に追われることしか出来なかった貧しい人々に、 小難しい「仏教教理」を教えることが出来たのでしょうか? 当時の「坊主」とは、いわば国家の「高級官僚」だったのですよ。
人を観て法を説く。
当時の人々には、ただ、「南無阿弥陀仏」と唱え、「利他の救いを信じる」という、 「素朴な教え」を与えるしか、道はなかったのではないでしょうか…
> > どうも、アベルさんは「悪循環」の思考パターンを繰り返しているみたい。 > > 「条件反射(癖)」なのかしら? > > そこはやっぱり、「陽気ぐらし」で行かないと、ね(笑)。 > > プライド卑屈と先案じの悪いパターンですね(笑)。 > 天理教「妄信」してみましょうかね〜〜
それも一つの「選択支」だと思います。 自己の「責任」において「選ぶ」ことが大切です。
> 下手の考え何とやらと申しますが、プロセスを如何に色々勿体つけたとしても、 > 結果的に行き着く先が陰気ぐらしというのは間違っていると。
そうですね(笑)。
> でも妄信での陽気ぐらしが正しいかというと、 > まあアベル式よりはましかもしれないけど、やはり変。 > 修行体験+思索にて智慧を得ることができたら本当に素晴らしいのですが・・・。
では、「その道(方法)」を選んでみては如何でしょうか?
> > 釈迦は、「千生先」や「四アサンキャ十万カルパ先」に > > 結果の出るような話しなど、一切していません。 > > 「今、ここにある現実」で役に立つことを教えていたのです。 > > これもオウムの言い方の出典とか反論の根拠とかわかったら興味深いところなのですが。
「オウムの言い方の出典」は、 おそらく「ジャータカ(転生壇)」あたりから来ているのだと思います。
「反論の根拠」は、「修行者の行動意欲(モチベーション)」を重視した釈迦が、 それを「殺(そ)ぐ」ような教えを言うはずが無い、と考えるからです。 アーガマには、この「モチベーションを高めるための説法」が、 沢山存在しているのですから。
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