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Message#2696 2006年1月19日(木)11時06分 From: 和井 恵 | |
| あべるさんのメッセージ(#2689)への返事
> > 「真我」とは、「主観」そのものです。 > > しかし、考えてみれば解るとおり、私たちは「自分を直接観る」ことは出来ません。 > > 必ず、例えば「鏡(客体)」というものを使って「間接的」にしか認識できない。 > > しかしそれは、「虚像」にしか過ぎないのです。 > > それと同じように、「真我(私)」を「客観視(想定)」して、 > > 「言葉」という「客体」を使って「理論化(説明)」し始めた「段階」で、 > > それはすでに「真我」では無くなってしまうのです。 > > この「パラドックス」を理解出来れば、 > > 何故釈迦が「無記」を貫いたのかが、大体「理解」できるのではないでしょうか。 > > う〜〜〜ん、難しくてよく理解できてないです。
それは、以前説明した「無明」と同じように、「難しく考え過ぎている」からです(笑)。
> 修行体験として「真我」を体得するしかない、とは教えられますし、 > 「真我」を体験できるステージでない者にとって > 「言語表現で説明不可能な『真我』をどうやって確信できるのですか?」 > と質問したところ、体験した人からデータを貰うしかないかな〜、 > との答を頂いたことがありましたが・・・。
貴方は「真我の体験」というものを、「何か特別のモノ」として捉えてしまっている。 私たちは、「今、この瞬間」すでに「真我(私)」を「体験し続けている」のではありませんか?
それを「チベット密教」では、「意識の連続性」と呼んでいる。
「昨日」寝て、「今日」また起きて、その間に「断絶」していない「自分」というものが在るでしょう? 寓話の「青い鳥」を考えてご覧なさい。 「青い鳥」を探し求めて、あちこちを旅した主人公たちは、 最後に「自分の家(現実)」に戻ったときに、「その姿」を見つけたのではありませんか?
釈迦が発見した「第三の瞑想法」。 それは「念(サティ・気づくこと)」の修行だ、と私は言いました。 「今、この一瞬」に意識を集中する。 そして、「過去(への囚われ・後悔の念)」や 「未来(への渇望・期待感)」といった「幻影(空想・妄想)」を遮断して、 「目の前にある現実(今、この一瞬)」を、ありのままに「観ること」。 それこそが「真我の体験」に他ならないのです。
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