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Message#2909 2006年2月5日(日)15時27分 From: 和井 恵 | |
| 禅宗のお話で、こういうものがあります。
「若い僧侶」が、あるお寺にやって来た。凛として物静かで、ちょっと「いい感じ」。 そこで、そのお寺の「住職」、近くに住む「若い女の子」を呼んで、その「僧侶」の前に座らせた。 そして、目の前の「女の子」をどう思うか?と「僧侶」に尋ねる。 「僧侶」は、「石」や「枯れ木」と同じで、「別に何とも思いません」と答える。 それを聞いた「住職」は、「このナマ悟りめ!」と怒って「僧侶」を追い出してしまった。
…というもの。 つまり、「感受性」を「殺す」ことが「悟り」では無い、ということ。
ですから、同じ2ちゃんで、李営(RIEI) さんが次のような質問をされていましたが、
|704 李営(RIEI) | |ただ、美しい人と普通の人を、 |同じように見ることができません。 |平等心がないといえます。 |このままでは、私は救済者にはなれないと自覚しています。 |「えこひいき」して人を見ている間は、 |他人に苦しみを与えることがあっても、 |他人に安らぎを与えることはできないと思うのです。
「美しい人」を「「美しい人」と観て、「普通の人」を「普通の人」と観る。 これは「あるがままにモノを観る」ということ。 「同じ(同一)」に「無理やり観る」ことが「平等心」ではないと思うのです。
これが「問題」になってしまうのは、多分、「部分に拘(こだわ)る」からだと思います。 「群盲象を撫でる」の喩えのように、「象」には「色々な部分(認知できる情報)」があります。 ですから、「美しい」だけではなくて、「自己中」かどうか、「慢」が強いか弱いか、 そして「愛情欲求」が激しいのかどうか、「自立」しているのかどうか。 これらを総合的に観ていけば、 「えこひいき(主観的な独善・選り好み)」は少なくなっていくでしょう。 そして、「相手の持っている条件」によって、「対応の仕方」が「違ってくる」のは当然のことです。 むしろ「同じ」方が可笑しいし「現実的対応」では無い。
例えは、「独善的」で「自己中」、「愛情欲求」の強い人に対して、 「慈愛(四無量心)の実践」などしようものならば、「餓鬼に食事を与える」ようなもの。
自動車の「運転」を覚えるときも、最初は「教習所」で「原理・原則」をたたき込まれます。 しかし、「教習所内」での「仮免」までは、それでもOKですが、 いざ「現実社会の路上」を走る場合、「教習所通り」の運転をしていると、 間違いなく「事故」を起こすでしょう。 それは「現実的な対応をする」という「応用力」の問題なのです。
そして、もう一つ大切なことは「人目を気にしすぎてもいけない」ということ。 どんなに「注意深く」「配慮した」としても、「誤解する人」は必ずいるものです。 「他人の評価」を気にしすぎても意味はありません。 AとBという二人の人が居たとして、 例えば仕事の都合上そのうちの「どちらか」を選ばなければならない、 という「状況」は必ずあるでしょう。 その時に、「選ばれなかった相手」が「えこひいきをされた」と感じたとして、 それに対する「フォロー」は、勿論すべきでしょうが、それも「相手の資質」によるでしょう。
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