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Message#3066 2006年2月24日(金)20時24分 From: 和井 恵 | |
| 釈迦が弟子達に指導した修行法は、「七科三十七道品」と呼ばれています。 そして一般的に、その内容は「戒・定・慧」の「段階的な訓練システム」だとされています。
釈迦の修行法を、解りやすく言うならば、 私たちの「無明(盲目状態)」を滅することによって、 「分断された部分的な認識(分別・二元的な囚われ)」から「解脱」する処にあります。 有名な「群盲象を撫でる」の喩えこそが、その「状態・状況」を端的に顕しているのです。 そこから、様々な「対立(矛盾)」が生じ、「迷妄(間違った認識のループ)」に陥ってしまう。 そして、私たちを「盲目状態」に陥れている「主要な心の働き」が、「三毒(貪・瞋・痴)」なのです。 釈迦はこれを「池の水面の状態」に喩えて、色々な説明をしています。 「怒り」を「水面の沸騰状態」に、「貪り」を「色の付いた状態」に、 「無知」を「泥で濁った状態」に喩えて解りやすく教えを説いているのです。
しかし、逆を言えば、「無明」によって「三毒(貪・瞋・痴)」が生じているのであって、 「真実(真理)」を把握すれば、「三毒」と呼ばれた「心の働き」は「転変(変化)」し、 TPOに応じてコントロールされた「有効活用」が可能になるのです。 そしてこれが、後世に登場した「密教」の「煩悩即菩提」と呼ばれる教えの内容なのです。
ですから、釈迦の教えた「戒律」とは、「それを守ること」自体が目的なのではなく、 「心の偏った状態」を「矯正」するための「対処法」なのです。 例えばここに「ギターの弦」が在ったとして、「緩みすぎて」いたり、 逆に「張りつめすぎて」いたのでは、「正しい音色」を奏でることはできません。 「戒律」とは、「心の調律」を行うために必要な「方法(手段)」にしか過ぎないのです。 そして、「調律」が成されてしまえば、「必要のないモノ」なのです。 それが、アーガマでは「筏の喩え」として表現されているのです。
それに対して、「大乗仏教」では「六波羅密」を修行の中心に置きます。 一見すると、その内容は「布施+戒・定・慧」であるかのように見えますが、 実はこの「修行法」は、「根本的な問題」を抱え込んでいるのです。
それは、どのような「理由」および「原理(修行法としての効果がある理由)」によって、 この「「六波羅密」と呼ばれる「修行法」が登場してきたのかを説明してゆけば、 自ずと明らかになっていくでしょう。
(つづく)
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