Message#2183 2005年12月25日(日)23時16分 From: 和井 恵 | |
| 釈迦の教えを理解する上で、「無記」という「基本方針(ポリシー)」と同時に、 もう一つ押さえておく「要点(ポイント)」があります。
私は昔、般若心経などを日々の「勤行」として毎日唱えていたことがありますが、 妙に「気になっていた」ことがありました。
「眼・耳・鼻・舌・身・意」……眼とか耳が、どうして出てくるのだろうか? 何か「意味(使う必要性・理由)」でもあるのかな…
実は、大ありだったんですね。 釈迦は、自分の「教説」で使用する「認識範囲(テリトリー)」を明確に「規定」していました。
それが、アーガマにある「一切経」という教えです。
|みなさん、わたしは「一切」について話そうと思います。よく聞いて下さい。 |「一切」とは、みなさん、いったい何でしょうか。 |それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、 |舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、 |心と心の作用、のことです。 |これが「一切」と呼ばれるものです。 |誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、 |それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないでしょう。 |さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、 |病に倒れてしまうかも知れません。何故でしょうか。 |何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。 |(サンユッタニカーヤ 33.1.3)
つまり、釈迦が説く「教え」は、この「一切」の範囲内で全て「示される」ものだった、ということです。 要するに「すぐに確認できる範囲内」でのお話なのです。
遠い「未来」や「過去」、あるいは「こことは別の世界」などの領域を、 意識的に全て「排除」した教えなのです。
ですから、釈迦の教えを聞いた人たちは、
|教法は世尊によりて善く説かれた。 |すなわち、この教法は、現に証せられるもの、時を隔てずして果報あるもの、 |来り見よというべきもの、よく涅槃に導くもの、 |知者がそれぞれに自ら知るべきものである。
と言って、その教えを賞賛したのです。
つまりそれは、「この現実で証明できるもの」であり、 「すぐに結果が顕れるもの」であり、 「ここに来て見れば、すぐに解るもの」であり、 「苦の滅尽に役に立つもの」であり、 「賢い人なら、自分で検証が可能なもの」であった、というのです。
ですから、この「条件」に当てはまらない「教えの解釈や理解」は、 釈迦の説いた「教え」とは「別の何か」ということになるのです。
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