Message#2245 2005年12月29日(木)19時11分 From: 和井 恵 | |
| あべるさんのメッセージ(#2238)への返事
>でもどっちにしても根本的なことでないのなら、 >そういうテキト〜な解釈でも利益になる方便ならよいって感じ?
「方便」の場合は、特に「使い方」を間違えると「毒」になります。 「どういう理由から、このような教えを使っているのか?」 その理解が足りないと、「火傷(ヤケド)」をします。 今の「アーレフ」の「カルマの法則」の使い方に、 特にその「毒(副作用)」を感じています。
>何が利益かってのは相当問題あるかもしれませんが・・・。 >輪廻転生を前提としてなんてところから >ポワだなんて言って殺人に飛躍しちゃうとすると滅茶苦茶ですが、 >まあ宗教ってものは普遍的にそういう >「毒にも薬にもなる」って部分を有してるんでしょうけど。
「ポワ」は、基本的に「仏教(釈迦の教え)」ではないと考えています。 チベット密教を調べてみると、 その歴史の中で「暗黒の時代」があったようなのですね。 つまり、「派閥」同士の「戦い(殺し合い)」をしていた時期が… お互いを「法敵」として「呪詛」や「暗殺」を死合うという。 それらの「行為」を「正当化」するために生まれてきた「考え方」のような気がしています。
釈迦の教えの中に、「高い世界(天界)に転生させる」ことが、 「苦の滅尽へ至る道になる」という考え方は、まったくありません。
裕福な商人の息子(ヤサだったかな?)を 釈迦が「修行」に導く逸話は有名です。
彼は、現世の生活(楽しみ)に「執着」していた。 それを観た釈迦は、「神通力」によって、 「神々の世界」を彼に見せる。 彼は、現世よりも「天界」の方が、 「美女も多い」し(笑)「楽しみの多い世界」であることを知って、 そこへ行こうと「修行」を始めます。 しかし、しばらくして、 釈迦が次に彼に見せた「ビジョン」は「地獄の世界」で、 「空の鍋」を煮立てて、何かを待っている鬼たちがいるのが見えます。 「何を待っているのか?」と彼が尋ねると、 釈迦の弟子の「ヤサ」という男が、 天界で「功徳」を使い果たして、やがてここへ「落ちてくる」。 俺たちは、それを楽しみに待っているんだ、という答え。
その「答え」に、ハッとして「気が付いた」彼は、 その後、「本当の修行の道」に入っていった、というお話。
「天界転生」など、釈迦の教えの「本質」ではなく、 「方便」の教えで「毒」を持っている、と言わざるを得ません。
>> 人は、何か(例えは、真理・真実)を求めて彷徨います。 >> しかし、そこへ「到達」できる「道(道程・方向)」が解らない… > >♪天へ帰れ の世界
違います(笑)。 私の説明は、「天界転生」とは一切何の関係もありません。
誤解の無いように… 「神々の世界」とやらが「目的地」なのでは、まったくありません。 >> しかし、その「試行錯誤のプロセス」こそが、 >> まさに「道を歩く」事なのだと思います。 > > タントリズムの極致、左の道の完成だったりして!!
これも違います(笑)。 私が「自分の娘よりも年下の女の子」に、 何で「タントリズム(左道)」を教えなければならないのですか? いったい、どこからそういう発想が…
「迷いの中に道あり」というのは、 古来の伝統的な大乗仏教における「有名な言葉」です。 「左道密教」とは何の関係も有りません。
「道」とは「苦の滅尽に至る道」のことであり、 目的地もまた、それ以外にはありません。
「タントリズム(左道)」は、「苦の滅尽」ではなくて、 「神通力」の「獲得」と関係のある「修行法」なのです。 「方向性」が全然違います。
>オウム美女を集めた特殊浴場でも作るとか!
オウムの「修行者」には「無理」でしょうね(笑)。 だからといって、別にそれが悪いわけではもちろんありません。 「タントラ」には、興味本位で近づかない方が無難です。 やり方を間違えると、「大火傷」をしますから。
>もう喫茶店なんて生易しいこと言わずに。 >源氏名「メーテル」姫は懺悔の意味で彼にはサービス料無料で、 >なぁ〜〜んてね。懺悔、ふ〜
懺悔する前に、「妄想」するのは止めましょう(笑)。 >> 「道」を歩む上で、一番大切なのは「誓願」です。 >> 強い、しっかりとした「目的意識」を持つこと。 >> それによって、私たち誰もが持っている「潜在的な力(サーヴォ機構)」が働き始める。 > >意志を持ち続けること・・・それが出来たら苦労は無いのですが
苦労(努力・精進)無しで、「成果」を得ることは出来ません。 「間違った努力(苦労)」をしないことが肝心でしょう。 >>「迷う」ことは、とても辛いものです。 >>心が「不安定」な状態を続けるわけですから。 >>ですから、すぐに「白黒(否定か肯定)」をつけたがる。 > >本当に本当に、常に迷ってばかりの者としては身に染みます。 >でも簡単に結論付けても、 >そんなものインチキだということだけは相当明瞭にわかりますので一層苦しいと。 >単なる疑念かもしれんですが(笑)
「疑念」は大切です。 それがゼロになると「盲信」になってしまう危険性がある。 「疑問」は忘れずに何処かに「仕舞って置き」、 時々取り出しては「考えて(検討して)みる」。 私はこれを繰り返してきました。 ポイントは、「否定する」ためではなくて、 「信じるため」に「疑う」ということ。
>エラー・アンド・エラーになりがちなのが人間の弱いところであり >原罪とまで表現される不可思議さなんではないでしょうか。 >望ましくないとわかっていても一神教が多くの人に受け入れられる、 >親鸞聖人ほどの方ですら一神教的な教えに。 >勿論我々とは次元の違うところでしょうけど。
「親鸞聖人」が生きておられた頃の、 どうしようもない「社会事情」や「人々の資質・事情」と、 現在とは、まったく「条件」が違います。 最初から「逃げ腰」では、どうしょうもない(笑)。
>>そして、いつか「類は類を呼ん」で、貴方に「法友」が出来たとき、 >>その人が、かつての自分と「同じような悩み」を持っていることに気づくでしょう。 >>その時こそ、「貴方が経験してきたこと」が役に立つのです。 > >それが低値安定ではだめなんでしょうけどね。 >なぁ〜〜んてプライド高くて目標設定が高すぎて >現実とのギャップで卑屈になるっていうのがいつものパターン。
現実と「違う(ギャップがある)」から「目標」なんでしょうが(笑)。 「同じ」だったら、すでに「目標」に到達していることになる。 どうも、アベルさんは「悪循環」の思考パターンを繰り返しているみたい。 「条件反射(癖)」なのかしら?
>あの山本浣腸さんですら、上手にまいんどこんちょろぉるして貰えるなら、 >徹底的にしてもらえるのなら希望するとまで書いてられたことあり。 >初期の開祖って、ひょっとしたら >そういう期待を抱かせるくらいの方だったんではないかなぁ〜〜なんて >勝手に想像だけしてますが。
私は、そんなことを考えたことがないので解りません。 >>貴方は、その「道」をすでに歩き始めている…私は、そう信じています。 > >千生かかるか四アサンキャ十万カルパかかるか・・・して >結局悪趣にかつての阪神のように安定したりして(笑)。
釈迦は、「千生先」や「四アサンキャ十万カルパ先」に 結果の出るような話しなど、一切していません。
「今、ここにある現実」で役に立つことを教えていたのです。
>陰気ぐらしのアベルでした。
そこはやっぱり、「陽気ぐらし」で行かないと、ね(笑)。
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