Message#2674 2006年1月18日(水)21時22分 From: 和井 恵 | |
| あべるさんのメッセージ(#2670)への返事
> > ですから、まぁ、かなり先の話しとして、 > > 同じ「修行者(道を歩く人)」同志が、夫婦であったり、恋人同士である、という「条件」の人たちに対しては、 > > この「訓練法」を「教えてあげる」ということは、将来において有るかも > > これは素晴らしいですね。でもそんな素晴らしいパートナーが死んだり年老いたり心が > 離れていったりしたときの苦しみは一層大きいのではないかと。それこそ苦ありて信あり > にて強く心が修行に向うかも。
「逢う」も「別れる」も、共に「無常(一時的なモノ)」なのです(笑)。 そして、私たちは「本質的」には「別のモノ」ではない。
「逆(別離)」もまた「無常」、これに、本当に「気づけ」ば「苦」は「滅尽」するでしょう。
> オウムの「真我説」がサーンキャのそれであることは薙刀正師がご指摘になってましたし > M正大師も明言されてるわけですから、凄くよくわかる。 > > オウムを貶める口実を鵜の目鷹の目で探してる香具師の中には「アートマン肯定のオウム > は非仏教→値打ちがない」といった薄っぺらなことを今でも言ってるのが結構いますが、 > 全く哀れな脳味噌ですわ。薙刀正師が釈迦の思想に関して「無我」説の安易な決め付けでなく、 > あくまで「無記」とご指摘されたのも流石に厳密と(僭越ながら)。
その「無記」について、今回は少し説明しましょう。アベルさんの為にね。
「真我」とは、「主観」そのものです。 しかし、考えてみれば解るとおり、私たちは「自分を直接観る」ことは出来ません。 必ず、例えば「鏡(客体)」というものを使って「間接的」にしか認識できない。 しかしそれは、「虚像」にしか過ぎないのです。
それと同じように、「真我(私)」を「客観視(想定)」して、 「言葉」という「客体」を使って「理論化(説明)」し始めた「段階」で、 それはすでに「真我」では無くなってしまうのです。
この「パラドックス」を理解出来れば、 何故釈迦が「無記」を貫いたのかが、大体「理解」できるのではないでしょうか。
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