Message#2689 2006年1月19日(木)02時51分 From: あべる | |
| 和井 恵さんのメッセージ(#2674)への返事
> 「逢う」も「別れる」も、共に「無常(一時的なモノ)」なのです(笑)。 > そして、私たちは「本質的」には「別のモノ」ではない。 > 「逆(別離)」もまた「無常」、これに、本当に「気づけ」ば「苦」は「滅尽」するでしょう。 なるほどなるほど、苦しみもまた無常。少なくとも言葉の上だけでは非常によくわかります。 でも体感時間ってことになると、苦しみの方がずっと長く続くように思えるのでしょうね。
> 「真我」とは、「主観」そのものです。 > しかし、考えてみれば解るとおり、私たちは「自分を直接観る」ことは出来ません。 > 必ず、例えば「鏡(客体)」というものを使って「間接的」にしか認識できない。 > しかしそれは、「虚像」にしか過ぎないのです。 > それと同じように、「真我(私)」を「客観視(想定)」して、 > 「言葉」という「客体」を使って「理論化(説明)」し始めた「段階」で、 > それはすでに「真我」では無くなってしまうのです。 > この「パラドックス」を理解出来れば、 > 何故釈迦が「無記」を貫いたのかが、大体「理解」できるのではないでしょうか。
う〜〜〜ん、難しくてよく理解できてないです。修行体験として「真我」を体得するしか ない、とは教えられますし、「真我」を体験できるステージでない者にとって「言語表現 で説明不可能な『真我』をどうやって確信できるのですか?」 と質問したところ、体験した 人からデータを貰うしかないかな〜、との答を頂いたことがありましたが・・・。
いくつかの比喩表現はあるわけですが、何かわかりやすい説明ってないでしょうかね〜。
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