| 和井 恵さんのメッセージ(#3189)への返事
> そして、「自分が他に為す行為」は、相手にとっては「過去(世)で自己の為した行 > 為」になってしまう為に、いくらその人が「努力や工夫」をして他の人に接したとし > ても、その「行為」は、全て「相手の過去の行為」の「範囲内」での「行い」に「限定」 > されてしまうのです。「カルマ」の「法則(強制力)」によって…
これと同じことを、これは尊師の説法ではなく、 弟子の「解説」として聞いたことがありますな。 例えばここに私(ぼんち)がいると。 私が生涯において何らかの関わりを持つ人物というのは、 近くは肉親や友人知人から、遠くはすれ違う人、共存する微生物に至るまで、 すべて私のカルマという「台本」に記された登場人物であり、 家や建物、この世界という私の知覚するものすべてが 私のカルマという「台本」に記された舞台装置や効果音であると。
私の一生分に関する「台本」だけでも、紙に書いたらどんな量になるんだろう、 なんて恐ろしげなことも考えたくなるわけですが、(笑) 逆にそのように考えると、 私自身も「ぼんちのカルマ」という台本の登場人物全員の各人の 登場人物の一人ということになっているわけですよね。 仮にその「ぼんちのカルマ」の登場人物が1億だとしたら、 私は1億冊の台本にその名が記されているということになり、 私とその各人が共演する場面というのは必ず、 背景も台詞も一致しているということになるはずです。 そしてそれは私関係以外のところでも起こっていることであるし、 私の関係者同士の間でも起こっていることであると。 これって、あまりに恐ろしすぎる「共演」だとは思いませんか? これが、「台本」の比喩に対する私の感想でした。
> 何故ならば、「相手の過去に無い行為」を相手に施すには、「カルマの法則」を超える > 「必要」があるからです。
これって、相手のカルマをごまかす権限のある人、ってことになりますよね? 基本的に我々のレベルでそれをやってくれそうな「魂」って、 例えば尊師みたいに(笑)、生身の人間である必要があると。 ただ、生身の人間が他人に対して、「カルマをごまかす権限がある」というのは どれほど恐ろしいことなんだろう、と思ってしまうのですがね。
> そして、自分で自分を「竹刀」で叩いて「カルマを落とす」という「オウムの修行法」は、 > 「落とす」と同時に「自分で新しい悪業を造っている」ことにもなり、その「自己の悪業 > の総量」は減らないのではないでしょうか?
ちなみに、和井恵さんはこの、例えば「ヴァジラヤーナの帰依」みたいな 竹刀を使った修行はやりました?
で、この修行法なのですけど、疑問の投げかけ方としてはこういう風に 投げかけることもできると思うんですがどうでしょう? 私は別に「自分で新しい悪業を作っている」とまでは言う気がないんですが、 それでもカルマの「自浄」をすることができるんだとしたら、 「苦の総量は一定」という前提を覆すことになりはしないか? また、その前提にこだわるのなら、この修行法はナンセンスになりはしないか?
もっとも、私がカルト教団でも作って教祖になるとしたら、 「ヴァジラヤーナの帰依」はプログラムに組み入れると思います。 ヴァジラ ナマ ●● ヤ、の●●への帰依を、 文字通り自ら体に叩き込ませる、という修行効果だけはありそうだからです。 カルト教祖としてはこんなに楽なマインドコントロール法はありません。(笑)
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