Message#3868 2006年6月1日(木)00時56分 From: YASU | |
| のろちゃんさんとムッタデーヴァさんのメ〜ルが、以前、オンフルール板の過去ログに掲載されていましたが、今はポア状態ですので、ここに再掲載しておきます。
オリ〜ブさんとよく絡んでいましたね。しかし、ついにはお二方とも出て行かれてしまいました。
ムッタデーヴァさんに関心のある方は、多いと思います。彼の病気が回復するのを心より願っております。 (河上イチロー時代の彼を憎んでいる方も多いかと思いますが・・・)
もしご本人やのろちゃんさんから、削除依頼があったときは、わたしか管理人さんがこれを削除するかもしれません。
-------------------------------------------------------------------------------- ●のろちゃん(471) 題名:煩悩について (1) あべるさん 2000字以内になっているか自信がないですがとりあえず貼り付けます。
(8月4日 10:40分)のろちゃんからムッタ・デーヴァ氏へ こんにちは
先日は私のメールに対して丁寧な補足や説明をしていただきまして ありがとうございました。
今日お便りをしましたのは不良準信徒(笑)のあべるさんの掲示板で書き込みを したり読んだりしていて私が今までアレフの皆さんにお便りをした中で「欲求」 と「煩悩」をごっちゃにして表現した事はなかっただろうかと少し不安になった からです。
いわゆる「欲求」は現在生きている上で滅する事は出来ませんが、正しくコント ロールされた欲求以外のよこしまな欲求とでも言いますか、「煩悩」は滅すると 表現できると思います。もし私が欲求と煩悩を同意語的に使用していたとしたら 私の誤りですのでご指摘くださればうれしいです
Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows 98; Win 9x 4.90) 投稿日 : 2002年8月11日<日>18時56分 -------------------------------------------------------------------------------- ●のろちゃん(470) 題名:煩悩について (2) (8月4日 12:48分)ムッタ・デーヴァ氏より返信 なるほど。 しかし、完全なるニルヴァーナにおいては、すべての「欲求」が消えることにな ります。「生存渇愛」つまり生命欲すら断ってしまうわけです。それがなくなっ たとき、完全に転生はなくなり、つまりお釈迦様の最終の涅槃という状態になっ て「もはや再生する必要がない」とおっしゃる状態に至るわけです。
一方、菩薩と呼ばれる方々の中には、あえて欲望を捨てず、というかわざわざ身 につけて転生を繰り返す場合もあります。たとえばチベットの転生仏の場合、わ ざと人間的な煩悩を「具足」(その欲望にとらわれるのではなく、単に身につけ、 活用し、必要がなければいつでもポイと捨てられる状態で備えること)して、そ して人間世界に転生するのだ、ということです。
言い換えれば、「現在生きている上で滅する事は出来」ない欲求というものは当 然ありますし、もちろん解脱欲求・救済欲求というものは、最終の段階に至るた めに備えるべき欲求ではあるのですが、ただ、完全最終の段階を求めるなら、い ずれそれを捨てるべきときもくるでしょうね、ということです。
ニルヴァーナ、パーリ語でニッバーナの語源は、火が消えるように消える、とい うことです。アレフでは強い言葉で「煩悩破壊」と呼んでいますが、これはかな り強い決意を込めた訳語と言ってもいいでしょうね。しかし、すべての煩悩、す なわち真我=空ならざるすべての二元の世界の、無常なるものを求める欲望・欲 求はすべて破壊されるべきであり、それこそお釈迦様の四諦の三つ目、「すべて の苦しみは破壊できる」(滅諦)ということの意味だろうと思います。
(8月4日12:05分)のろちゃん送信分 O なるほど。 > しかし、完全なるニルヴァーナにおいては、すべての「欲求」が消えることにな > ります。「生存渇愛」つまり生命欲すら断ってしまうわけです。それがなくなっ > たとき、完全に転生はなくなり、つまりお釈迦様の最終の涅槃という状態になっ > て「もはや再生する必要がない」とおっしゃる状態に至るわけです。 >
涅槃の状態にある方であっても生きている間は物理的にも細胞を動かそうとする 何らかの「欲求」はあるわけで滅する事は出来ないだろうと思います。 また「欲求」を滅するとは自らの命を絶つ行動に導く事にもなり「解脱者」が そのような行動に出る事は通常はないだろうと思います。 と言ってみましたが何せ長文読解力に乏しい私ですから同じことをおっしゃって いらっしゃいましたら失礼しましたです。
> 言い換えれば、「現在生きている上で滅する事は出来」ない欲求というものは当 > 然ありますし、もちろん解脱欲求・救済欲求というものは、最終の段階に至るた > めに備えるべき欲求ではあるのですが、ただ、完全最終の段階を求めるなら、い > ずれそれを捨てるべきときもくるでしょうね、ということです。
解脱欲求、救済欲求と言うのもつまるところ私は煩悩であると捉えている事は 申し上げたと思いますが、ん?、赤沢さんにでしたっけ? それほど大きく 議論し口論するような問題でもないとも思っています。でもお釈迦様の名が出て きたらこだわってしまうかも(笑)
>一方、菩薩と呼ばれる方々の中には、あえて欲望を捨てず、というかわざわざ身 >につけて転生を繰り返す場合もあります。たとえばチベットの転生仏の場合、わ >ざと人間的な煩悩を「具足」(その欲望にとらわれるのではなく、単に身につけ、 >活用し、必要がなければいつでもポイと捨てられる状態で備えること)して、そ >して人間世界に転生するのだ、ということです。
いろんな生き方があってよいとは思いますが、なぜそのような人生を選ぼうとされるのかは興味がありますね。
Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows 98; Win 9x 4.90) 投稿日 : 2002年8月11日<日>18時56分 -------------------------------------------------------------------------------- ●のろちゃん(469) 題名:煩悩について (3)−1 (8月4日21:13分)ムッタ・デーヴァ氏より返信 O 涅槃の状態にある方であっても生きている間は物理的にも細胞を動かそうとする > 何らかの「欲求」はあるわけで滅する事は出来ないだろうと思います。 > また「欲求」を滅するとは自らの命を絶つ行動に導く事にもなり「解脱者」が > そのような行動に出る事は通常はないだろうと思います。
命を絶つ、のではなく、この肉体を維持できなくなる、のです。 釈迦牟尼が亡くなられる前、魔境状態のアーナンダが「如来はこの世におとどま りください」と言わなかったがために、釈迦牟尼はこの世界にとどまって救済を 続けるという意味合いを失ってしまい、そのために肉体を維持できなくなり、チュ ンダの供養(キノコまたは豚肉)によって下痢を起こしてなくなられるわけです。 それは単に肉体を維持する努力を放棄された、というだけの話ですけど。
涅槃(煩悩破壊)の状態にもいろいろある、と経典に説かれています。 アレフの訳語と並べて書きますと、
◎現世大煩悩破壊(現世大涅槃) ◎大完全煩悩破壊(大般涅槃) ◎中完全煩悩破壊(中般涅槃) ◎減少完全煩悩破壊(生般涅槃) ◎経験の構成がない完全煩悩破壊(無行般涅槃) ◎経験の構成がある完全煩悩破壊(有行般涅槃)
で、注目していただきたいのは、現世大煩悩破壊に「完全」が付かないというと ころです。つまり、二つ目以降の涅槃というのは、肉体の死後、完全煩悩破壊に 至るわけですが、現世の場合は生存しなければならない。したがって、生存ある いは救済のための最小限の欲求・欲望・煩悩を「具足(いつでも捨てられるが必 要があって所有)」しているわけです。だから、「完全」ではない、というわけ です。しかし、これが最も素晴らしい大煩悩破壊であるということになります。 釈迦牟尼はこの状態にあられたわけです。
> > 言い換えれば、「現在生きている上で滅する事は出来」ない欲求というものは当 > > 然ありますし、もちろん解脱欲求・救済欲求というものは、最終の段階に至るた > > めに備えるべき欲求ではあるのですが、ただ、完全最終の段階を求めるなら、い > > ずれそれを捨てるべきときもくるでしょうね、ということです。 > > 解脱欲求、救済欲求と言うのもつまるところ私は煩悩であると捉えている事は > 申し上げたと思いますが、ん?、赤沢さんにでしたっけ? それほど大きく > 議論し口論するような問題でもないとも思っています。でもお釈迦様の名が出て > きたらこだわってしまうかも(笑)
そうです。それは煩悩でありましょう。しかし、それは他の煩悩と違い、煩悩そ のものを弱める煩悩です(自分の煩悩を弱めるのが解脱欲求、他人の煩悩=苦し みを弱めるのが救済欲求)。そして、解脱なり救済が完了したとき、その煩悩そ のものも消滅するわけで、これのみが「最終段階の直前」まで肯定される煩悩で あるが、最終段階においては当然消滅する、という回答になりますね。
> >一方、菩薩と呼ばれる方々の中には、あえて欲望を捨てず、というかわざわざ身 > >につけて転生を繰り返す場合もあります。たとえばチベットの転生仏の場合、わ > >ざと人間的な煩悩を「具足」(その欲望にとらわれるのではなく、単に身につけ、 > >活用し、必要がなければいつでもポイと捨てられる状態で備えること)して、そ > >して人間世界に転生するのだ、ということです。 > > いろんな生き方があってよいとは思いますが、なぜそのような人生を選ぼうとされる > のかは興味がありますね。
Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows 98; Win 9x 4.90) 投稿日 : 2002年8月11日<日>18時54分 -------------------------------------------------------------------------------- ●のろちゃん(468) 題名:煩悩について (3)−2 先程の「解脱者」という問題ともからみますが、小乗と大乗の違いというものが あります。 自らの煩悩を停止し、存在する必要がなくなったとき、それに安住するなら、小 乗の涅槃に至るわけです。阿羅漢と呼ばれる方々はこのステージに到達された方 々であり、まずは私たちは自分自身の煩悩を完全に昇華・超越するこのステージ に到達する必要があります。 しかし、このステージに到達した方々の中に、「他の魂が苦しんでいるというの に、自分だけがこのような状態に安住していいのだろうか」と考える方々がいらっ しゃいます。これが大乗ですね。修行形態にもよってどちらの道をとるかが変わっ てきますが、自己の煩悩を越え、無/空に到達したとき、自他の区別のない一元 の世界に入ります。そのとき、他者の苦しみは自分の苦しみにほかならず、他者 の苦しみを弱め、なくしていくことこそが自分自身の最大の幸福につながる(と いうか、他者と自分の幸不幸の区別がつかなくなってくる)という、完全な利他 の精神が強ければ、当然、自分自身のことは置いておいて、完全に他者のために 生きる道を選ぶことになります。 この道を選んだ聖者方を菩薩といいます。そして、菩薩としての修行の末に、完 全なる如来としての完成、そしてこの世界への転生をもはや選ばない状態が訪れ るわけです。
アレフの修行は、自己の煩悩を完全に超越する前から、利他や「自他の区別をな くす」ということを強調しますので、なかなかハードです(笑)
しかし、自分のことを考えるから苦しむのであって、他の人たちの幸福を我がこ ととして心から願える状態こそが本当に自分を幸福に導くのだろうな、というこ とは、まだ完全な体験ではありませんが、うすうす日々の修行で感じているとこ ろです。それは、自己というものをいかに消していくか、ということですね。自 己の壁が壊れると、自己はどんどん広がっていきます(でもそこにまた壁があっ たりするわけで、修行は果てしなく続くわけですが)。 Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows 98; Win 9x 4.90) 投稿日 : 2002年8月11日<日>18時54分 -------------------------------------------------------------------------------- ●のろちゃん(467) 題名:煩悩について (4) 8月4日23:05分)のろちゃん送信分 O 命を絶つ、のではなく、この肉体を維持できなくなる、のです。 > 釈迦牟尼が亡くなられる前、魔境状態のアーナンダが「如来はこの世におとどま > りください」と言わなかったがために、釈迦牟尼はこの世界にとどまって救済を > 続けるという意味合いを失ってしまい、そのために肉体を維持できなくなり、チュ > ンダの供養(キノコまたは豚肉)によって下痢を起こしてなくなられるわけです。 > それは単に肉体を維持する努力を放棄された、というだけの話ですけど。
滅するという響きには本人の「意思」が働いている印象を持ちます。 また私自身そのようなつもりで「滅する」を使用しました。 > > しかし、このステージに到達した方々の中に、「他の魂が苦しんでいるというの > に、自分だけがこのような状態に安住していいのだろうか」と考える方々がいらっ > しゃいます。これが大乗ですね。
これはまさしく私の言う「煩悩」に他ならないのです。
> アレフの修行は、自己の煩悩を完全に超越する前から、利他や「自他の区別をな > くす」ということを強調しますので、なかなかハードです(笑)
自他の区別のない状態で「他の魂が苦しんでいる」と「自分が安住している」という認識がどこから来るのか私は理解できません。
自他の区別のない状態はそれぞれが完成された状態にあるときであると考えます。 私は自己と他を考える時自己と他(自己を含む全体)と捉えています。という事は 自己を完成させても全体(自己も含むので)が完成されたわけではありません。 ここで解脱者(しいて言えば涅槃の状態にある)とまだ完全に煩悩を滅しきれて いない人との差はその全体の完成に執着しないでいられる状態と全体も自分と同じ ように完成させなければ(完成させてあげたい)という欲求(煩悩)をもってしまう状態とに大きく分けられると思います。全体を完成させるのは全体を構成している個々の完成によってしか実現しないのでそれぞれの個々の完成の実現を促す事しか出来ないのに完成したい(させたい)と願っても仕方がないと正しく悟れていない状態であると私は思います。そのような状態(解脱していない状態)と私には思える状態を皆さんは『大乗』であるとおっしゃっているように思います。
ただ解脱者はまだ完成できていない人を『ざまあ見ろ』とは当然思わないわけで どのようにしたら完成できるだろうかと完成を望む人には自分の完成に到ったプロ セスを示し教えることはするでしょう。それは救済でも大乗と呼ばれるものでもないと考えます。なぜなら他を完成に導く事は他は自己を含む全体であるので自己をも益する事になるからです。
Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows 98; Win 9x 4.90) 投稿日 : 2002年8月11日<日>18時52分 -------------------------------------------------------------------------------- ●のろちゃん(466) 題名:煩悩について (5) (8月5日16:40分)ムッタ・デーヴァ氏返信分 O > しかし、このステージに到達した方々の中に、「他の魂が苦しんでいるというの > > に、自分だけがこのような状態に安住していいのだろうか」と考える方々がいらっ > > しゃいます。これが大乗ですね。 > > これはまさしく私の言う「煩悩」に他ならないのです。
では言葉の定義が違うのですね。 「自己」というものを満足させようとする心の働きを煩悩と私は呼んでいます。 もちろん、世間一般のボランティアや社会運動のように、その心の一部に自己満 足やプライドの充足や社会的評価などを求める気持ちがあって行なうならばそれ はまさに煩悩ですが、自己の利益など顧みず、というか必要なくなり、他者の苦 悩が取り除かれることのみを望むというのが完全な大乗の発想です。
> > アレフの修行は、自己の煩悩を完全に超越する前から、利他や「自他の区別をな > > くす」ということを強調しますので、なかなかハードです(笑) > > 自他の区別のない状態で「他の魂が苦しんでいる」と「自分が安住している」という > 認識がどこから来るのか私は理解できません。 > > 自他の区別のない状態はそれぞれが完成された状態にあるときであると考えます。
対象(他)が自他の区別を有する認識を持っていたとしても、自分の認識として、 自他の区別がないということは可能です。 そして、他者が苦しみを有しているが、自分だけはニルヴァーナに入る、という 小乗的な考え方を越え、他者が苦しんでいることがまさに自分自身の苦しみであ り、自己がその苦しみを吸収することこそが自己の喜びであり、そして他者の苦 しみを放置することが自分自身の苦しみである、という状態を、「他の魂が苦し んでいるにもかかわらず自分が安住することはできない」と表現しました。
> 私は自己と他を考える時自己と他(自己を含む全体)と捉えています。という事は > 自己を完成させても全体(自己も含むので)が完成されたわけではありません。
言葉の定義にズレがあるので議論が食い違っているように思います。
ですから、すべての魂の解放を目指すのが菩薩なのです。
> ここで解脱者(しいて言えば涅槃の状態にある)とまだ完全に煩悩を滅しきれて > いない人との差はその全体の完成に執着しないでいられる状態と全体も自分と同じ > ように完成させなければ(完成させてあげたい)という欲求(煩悩)をもってしまう > 状態とに大きく分けられると思います。全体を完成させるのは全体を構成している > 個々の完成によってしか実現しないのでそれぞれの個々の完成の実現を促す事しか > 出来ないのに完成したい(させたい)と願っても仕方がないと正しく悟れていない > 状態であると私は思います。そのような状態(解脱していない状態)と私には思える > 状態を皆さんは『大乗』であるとおっしゃっているように思います。
他人のことは考えない、というのは、解脱ではなく、自分だけ良ければいいと言 う煩悩です。
> ただ解脱者はまだ完成できていない人を『ざまあ見ろ』とは当然思わないわけで > どのようにしたら完成できるだろうかと完成を望む人には自分の完成に到ったプロ > セスを示し教えることはするでしょう。それは救済でも大乗と呼ばれるものでもない > と考えます。なぜなら他を完成に導く事は他は自己を含む全体であるので自己をも益 > する事になるからです。
他を利することが自分を利するというのはまさにそのとおりです。 しかし、自分を利することになるのだから、他を利しようと思えば、それは自分 を利することにはなりません。
そして、他を利することのみを考え続けることが救済であり、大乗です。 したがって、自己をなげうって救済し続け、大乗の道を歩み続けることこそ、そ の魂にとって結果的に最大の利益をもたらすのです。目的と結果を混同しないで くださいね。
Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows 98; Win 9x 4.90) 投稿日 : 2002年8月11日<日>18時50分 -------------------------------------------------------------------------------- ●のろちゃん(465) 題名:煩悩について (6) (8月5日19:39分)のろちゃん送信分 それぞれの定義の違う事を議論しても(ある方によると私のは 議論ではないそうですが)あまり意義がないというのはおっしゃる 通りでしょう。
お考えを貫き通す事もまた素晴らしい事ではありましょう。 それが釈迦の悟りであるとさえおっしゃらなければ私には 関係のないことですから。
目的と結果の混同についてはおっしゃる事が理解できませんが 承っておきましょう。
続けて(8月5日22:24分)のろちゃん送信分 他を利することが自分を利するというのはまさにそのとおりです。 > しかし、自分を利することになるのだから、他を利しようと思えば、それは自分 > を利することにはなりません。
目的と結果を混同すると言う事に少し引っかかっています。 煩悩は自分を利するものでしょうか?苦の原因であるという認識では私たちは 同じと考えてよいでしょうか?なぜ他を利しようと思えば自分を利することに ならないかと言うと「他を利しようと思う事」は煩悩であるからだと私は考えて いるからです。これは理解していただけますでしょうか?その上で私が目的と結果 を混同しているとお考えなのでしょうか?
> そして、他を利することのみを考え続けることが救済であり、大乗です。 > したがって、自己をなげうって救済し続け、大乗の道を歩み続けることこそ、そ > の魂にとって結果的に最大の利益をもたらすのです。目的と結果を混同しないで > くださいね。
と書き始めては見ましたが、段々どうでもよくなってきました。(笑) せっかく書いたのだから送りますがお返事は結構ですヨ。
Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows 98; Win 9x 4.90) 投稿日 : 2002年8月11日<日>18時49分 -------------------------------------------------------------------------------- ●のろちゃん(464) 題名:煩悩について (7) (8月6日22:46分)ムッタ・デーヴァ氏返信分 O > 他を利することが自分を利するというのはまさにそのとおりです。 > > しかし、自分を利することになるのだから、他を利しようと思えば、それは自分 > > を利することにはなりません。 > > 目的と結果を混同すると言う事に少し引っかかっています。 > 煩悩は自分を利するものでしょうか?苦の原因であるという認識では私たちは > 同じと考えてよいでしょうか?なぜ他を利しようと思えば自分を利することに > ならないかと言うと「他を利しようと思う事」は煩悩であるからだと私は考えて > いるからです。これは理解していただけますでしょうか?その上で私が目的と結果 > を混同しているとお考えなのでしょうか?
そのとおりです。 目的と結果を混同されていると思います。
煩悩は、目的としては自分を利そうとするものです。この場合の自己とはエゴと いうとわかりやすいでしょう。しかし、結果としては本当の意味では自分の利益 にならず、むしろ苦しみにしかならないものです。
「結果として自分を利することになるのだから、他人に恩恵を与えておこう」と 考える場合、これは実は「目的として自分の利益を考える」ことなので、結果と しては自分の利益にならない、ということです。
しかし、純粋に自分の利益を求めず、他者の幸福を願い、他者の苦しみを取り除 こうと考える場合、これは結果として、自分の利益になってしまいます。なぜな ら、苦しみがそこにあったとき、解脱・悟りに至らない普通の人(私も含みます) は、自己の利益を求める心の働き(=煩悩)が基本にあるため、苦しみを避ける ことが自分の幸福になると考えてしまい、そのように語り、行動してしまいます。
逆に菩薩と呼ばれる方々は、その苦しみを自分が引き受け、他者が苦しみを味わ わずに済むことを願います。これはもはや煩悩とはいえません。なぜなら、自己 の利益を求めているわけではないからです。しかし、結果的には、それによって 菩薩は利益を得てしまうのです。なぜなら、他者の苦しみが取り除かれることは、 自他の区別なく考えるなら、自己の内側の同じ苦しみを解決していることになる からです。
「他を利しようと思う」とき、そこに「自己のために」他を利しようと思うのか、 それとも「純粋に自己を放棄して」他を利しようと思うのかによって、結果は大 きく異なります。
そして、「他者に干渉しない」というのが、実は「冷淡さ」「自己保全」「優越 感の維持」といった「煩悩」に裏付けられている場合、それは大いなる悪業とな り、決して自己も他者も幸福にしないといえるでしょう。
「結果的に、人は自己を愛するがために苦しむのである」
> > そして、他を利することのみを考え続けることが救済であり、大乗です。 > > したがって、自己をなげうって救済し続け、大乗の道を歩み続けることこそ、そ > > の魂にとって結果的に最大の利益をもたらすのです。目的と結果を混同しないで > > くださいね。 > > と書き始めては見ましたが、段々どうでもよくなってきました。(笑) > せっかく書いたのだから送りますが、お返事は結構ですヨ。
思わず返事を書いてしまったので送ります(笑)
(8月6日23:25分)のろちゃん送信分 私は「他に干渉しない」をモットーとしておりますので(笑) 信じる道をどうぞお励みくだされ(笑)。
では おやすみなさい。
Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows 98; Win 9x 4.90) 投稿日 : 2002年8月11日<日>18時47分 -------------------------------------------------------------------------------- ●のろちゃん(463) 題名:業務連絡(笑) メール届きましたか? ジャンクメールの中に埋まってしまったでしょうか? それともこの掲示板にそのまま載せますか? Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows 98; Win 9x 4.90) 投稿日 : 2002年8月11日<日>17時12分 -------------------------------------------------------------------------------- ●のろちゃん(462) オリーブの栄光さんへ 題名:Re:ふーむ > 極端な話、昔オウムでクンダリニー・ヨーガを成就した人が、自分は成就したかど >うか分からないと言っているくらいですから。そのくらいの謙虚さ、慎重さがないと >何が正しいのかという論理に入っていけないと思うけど。
オリーブさんは一般論的な「正しい判断」を念頭においていらっしゃるから だと思います。ある決まった条件(種々)のもとでは「正しい判断」は出来ます。
> 誰かさんはこのような場で仏教談話をして楽しんでいるのかね? >それともオウム/アレフの人とメールをやり取りしたということを自慢したいのか?
私がここにきた頃(ある一時期を除いて)は少なくとも仏教談話をしていましたよ。オリーブさんも少なくともそうではなかったですか?私は一般の主婦なので アレフとのメール交換は決して自慢にはなりません。むしろある意味立場を悪く しているのですが、それはお分かりですよね。
> それならばなぜかつてのオウムの教義(事件前ではあるが)が評価されていたのかを >考えてみるといい。
私は評価されていたというのは初耳です。
> はっきり言ってかつてのオウムは「言葉遊び」で満足するような人が集う所じゃな >かったのは確かです。(笑)
「言葉遊び」であるという根拠は何ですか?
> そのオウム的な考えで言うならばあなたの言っていることは表層意識での話に過ぎ >ないということです。
そうおとりになるのは自由だと思いますよ。 Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows 98; Win 9x 4.90) 投稿日 : 2002年8月11日<日>09時22分
|
最新20件*最新50件*最新100件*最新200件*200件以前
昨日以降*2日前以降*3日前以降*4日前以降*5日前以降
bbs0506.cgi Ver. 3.114
Copyright(C) 1997-2005, Hideki
|