| 和井 恵さんのメッセージ(#5106)への返事
> 要するに、自分たちの「優位性」を示すために、当時の「上座部の僧侶」のみならず、 > 釈迦の「直弟子達」までもを「声聞」や「縁覚(独覚)」の分類の中に押し込めてしまったのだ。
その分類内容が正当かどうか、という以前に、 分類することそのものが釈迦の教えに合致していないような気が・・・。(笑)
> この中の、三人目の「タイプ」だけが増えていったら、どうなるだろうか? > 「合格者」は出ずに、運転の仕方を知らない生徒だけが、どんどん増え続けることになるのだ。
こりゃ本末転倒ですな。
> 「私は一番最後でいい」などというのは、「詭弁」にしか過ぎない。
「菩薩様」はどういう意識の持ち主か知りませんが、 この「教習所」の例で考えれば、これは最悪の詭弁でしょう。 こういうことを言う人物に限って、「功績で一番先に合格させてもらえる」 などと考えていることが多いですから、 本当に「最後」とまでは言わなくても、その人が導いた人間の中の数人を 先に合格でもさせようものなら、どんな問題を起こすかわかったもんではありません。
> 一番良い方法は、自分がより早く「合格」して、実際の「運転の仕方」を教える側に回ればよい。
面白いことに、オウムでさえマハームドラー成就まではこのように言われていたと。
> 「菩薩の修行」というものにも、大きな問題点がある。 > 彼らは「功徳」というものを修行のベースに置く。
> これは、何を言っているのかというと、 > 「言葉の持つ力(願望成就力)」を信仰する者達への痛烈な批判なのだ。
この二つを組み合わせて考えた時、ある修行法を連想しました。 大乗経典の読誦です。 意味がわかろうがわかるまいが、読み上げることに功徳がある、と。 或いは写経。 意味がわかろうが・・・以下略。
日本仏教のほとんどで、特に「在家」向きの「菩薩行」として 推奨されているものですね。 仏教用語に精通せず、漢文を読む語学力のない日本の庶民にとっては、 確かにぴったりな「商品」だったとは思いますが。
> 「(大乗の)菩薩」の登場によって、 > 釈迦の教法(教えとその実践)は、完全に闇に葬られてしまったのだと私は考えている。
しかもオウム同様に、「これが釈迦の真意だ」と言ってしまったためにね。(笑) 「釈迦の真意はこうじゃなかったかと解釈するけど」なら まだ害も少なかったかもしれませんが。
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