キャンディさんのメッセージ(#24007)への返事 > 漏れは罪を犯すくらいなら、退職して新しい仕事を探すね > まあ、あんたみたいな奴もあるかもしれない 「自分なりに善を追求する」、「大きな流れに逆らう」といった見地からは、 その選択はカッコイイと思います。 「一度決めたことを最後まで貫けない」、「信じきることができない」といった見地からは、 その選択は、心の弱さだと解釈できると思います。 > あなたのは、国民が上に絶対に逆らえない時代を引き合いに出してますよ 確かに、現在の日本には、そのような状況が割と少ないと思います。 現代日本は、国防に関する国民の意識や、宗教に対する意識などにおいて、 歴史的にかなり例外的な状況下にあるように感じます。 海外では現在も、一政策として戦争が起き、日常的に紛争が生じている中で、 イスラム教徒が、自己の社会を守り、神に帰依するがゆえに、自爆テロをし、 アメリカのクリスチャンが、自己の社会を守れると信じ、聖書を掲げて、攻めに行きます。 > 本人にとってはね > 他人にとっては迷惑ですが はい。そこが深刻なデメリットだと思います。 ですから、後述する、“バランス”が必要だとは思っています。 ちなみに自分は「命懸けの奴らに巻き込まれ、殺されるのは、構わない」と感じますが、 そういう風に思っている方はあまりいないでしょう。 > > 個人の人生や、国家の行く末など、大局的な事柄というものは、 > > すでに神々によって大方決められているものだと感じるからです。 > > それ、井上もいいわけに使っていたよ > サリン事件直前、やはり犯罪が嫌で躊躇していたと > そのたび、(これは神々の意志なんだ)と自分を納得させていたって > 逮捕されてから、 > (神々の意志などといっていたが、本当は自分で決めたことなのに > 責任転嫁していた)などと供述していた模様 神々が決めているのは、事実だと自分は感じています。 しかし「自分らだけが導かれている」といった自己欺瞞は問題だと思います。 つまり、僕個人の印象ですが、マスコミや公安、警察や検察、弁護士や裁判所といった、 「オウムを攻撃した勢力」もまた同様に神々によって支配され、 一定の計画通りに実現されていたのではないかと感じます。 そうした一連の流れの中で、「どこまで煩悩に負けずに、素直に従えたか」、 といった要素が、長い輪廻のスケールで考えた場合、重要になってくるのではないでしょうか。 例えば、「マスコミのAさんは、オウムの報道に対して、どこまで自分の時間を犠牲にし、 どこまで自分の使命の全うに全力を尽くせたのか」とか、そういう観点です。 そして、Aさんが死後、仮に「オウムの正当性」を知ったといった展開があって、 「いや、自分は会社の命令に従っただけなんだ、社会の流れがオウム批判になっていて、 自分には逆らえなかったんだ、自分は悪くないんだ」、 などと抜かしやがったら、僕はそいつをぶっ飛ばしたいですね。 同様に、現アレフの方が死後、仮に「日本社会の正当性」を知ったという展開があって、 「いや、自分は情報を遮断されて、洗脳されていただけなんだ、 逆らったらポアされていたかもしれないんだ、自分は悪くないんだ」、 などと抜かし出したら、僕は、そいつがあまりに情けなくて泣いてしまうでしょうね。 > そもそも、仏教の教えは、釈迦のいうに > (善くあれ、善くせよ、不善をなすな、これが三世の諸仏の説くことである)と > 三世てのは現在過去未来のこと > ニ精勤ニ正断てのは > (今しているよいことを増大して、未来にはもっと良いことをし > 今なしている不善は遮断し、二度としないようにする)と > > せっかく教えがあっても、我々には自分の意志でよいことをする権利がないんだろうか そういう方向性で努力することが大前提だと思います。 しかし、我々は、偉大な真理から見たら、いや、神々の視点から見ても、 やっていることは本当にゴミみたいなものだという認識があれば、たとえどう転んでも、 自分の正当性に固執することもなく、 自分の罪深さに滅入ることもないような気がします。 長文で申し訳ないのですが、 上記のような立場は、あくまでも、「自己を向上させる者の立場」で、 このような立場と同時に、 「他者や社会を向上させる者の立場」がなくてはならないとは思っています。 つまり、悪を為した組織への批判や、その幹部や指導者への批判です。 両方があって、初めてバランスが取れると思います。 |