影晃さんのメッセージ(#24461)への返事 > ヨーガに“サンヤマ”ってありますよね。ダーラナー、ディヤーナ、サマーディ。 サンマヤは実際には「客体と対象の境目が曖昧になった微妙な状態で対象物にマインドの力で働きかける技術的瞑想」です。 ダーラナー、ディヤーナ、サマーディ。とはまた別のことです。 > > 以前、僕が瞑想修行に専念していた頃、一点集中するラージャヨーガを主に為していました。 ラージャヨーガは己の王国(肉体・プラーナ・意志・意思・理知などの多くの内的心理器官)の言うことを聞き分け、王様がやるように国を統治し、バランスの取れた王国統治(即ちヨーガの語源意味である統御)を為し解脱を為す、これがラージャヨーガ(己の王国の統治、だからラージャつまり王のヨーガと呼ばれます。またこれヨーガは瞑想主体なので王道のヨーガであることも意味します)であり、その中にはダラーナから始まってサマディに至るマインドの統治も含みます。 なので一点集中(ダラーナ)がラージャヨーガではありません。 > グググっと一点集中すると、その点が突如視界全体に広がり、 > 意識の主体がそこに「ダーーー!」っと飛び込んでいきました。 > 一つ目の質問なのですが、これが“ディヤーナ”というものなのですか? ダラーナです。 この段階ではまだディヤーナは立ち現れていない様子だと断言できます。 言葉の意味を考えましょう。 「起きる」とか「起こしている」ではなく「立ち現れていない」と表現しています。 > > 僕の想像では、この現象の後に、“サマーディ”が待っているのだろうと思っていたのですが、 まだまだです。 > 吸い込まれるように吹き飛んだ意識の主体が、暗闇の中を駆け巡りつつ、 > いくつかのヴィジョンを見ながら、別の領域に降り立つ、ということばかり起きました。 ヴィジョンを観ているのでサマディは立ち現れません。 また意識が吹き飛んだ、とか、暗闇の中を、とか、いくつかのヴィジョンを、とか、別の領域に、とか、「なにかを経験している」という個体的意識を有する限りはサマディからは遠いです。 サマディ直前はマインドの機能から開放されているので「経験する」ということがありません。 なので「記憶」しません。 > 二つ目の質問なのですが、自分がその“ディヤーナ”と思わしき現象の後に、 > サマーディに入れない理由の主なものは、何だと考えられるでしょうか。 > > mixiで、「ナーラーヤン」さんという、凄そうなヨーギーの方からのアドヴァイスでは、 > 僕が肉食をしていたことが最大の原因、とのことでしたので、 > 人生で初めて菜食を始めてみたのですが、特にサマーディに入れることはなく、 > 今ではもう、サマーディに入ることを諦めています。 > もしよろしければ、アドヴァイスの方をよろしくお願いします。 菜食はするにこしたことは無いですが完全菜食は日本では逆にお金がかかるという皮肉がありますし、そこが全てのポイントではないと思います。 ダラーナは自分で出来ます。 それは「起こせます」 ディアーナは「起こせません」 それは「起きる」まで待つしかありません。 あるいはダラーナの後に続くのがディアーナなのでここまでは自力で「起こせる」と 考えても良いかも知れません(比較的にディアーナまではすぐに立ち現れるから) サマディは別です。 長い長いクリヤ行法の果てに自らの肉体や心理器官・内的身体が浄化され、深い瞑想状態の果てにマインドが機能を停止した後、サマディはたち現れる、あるいは向こうから「やって来る」 それは完全にサマディ側の都合であって瞑想者自身の都合ではありません。 なのでサマディは「待つしかありません」それも「マインド機能停止」という極めて困難な状態を一日に何時間も持続、あるいは何日も持続しないといけません。 そうやって初めてサマディは「やって来る」 その間は「経験」はしません。 経験をする「マインド」が停止しているから。 なのでヴィジョンは観ません。 記憶もしません。記憶するマインドが停止しているから。 この状態はマインドが開放されている。あるいはマインドを手放した状態だとも言えます。 ですがまだサマディではありません。 サマディは向こう側の都合で「やって来る」 このことを考えたら肉食そのものが原因とは考えられません。 ただしこれは肉食のススメではないことをお忘れなく。 よくオウムの幹部連中の瞑想体験の話を聞くと 「時間も空間も止まった」とかの体験を聞きます。 ここをサマディとしているかのような話をします。 「時間も空間も止まった」ことを「経験」しているので時間は動いていますし、マインドは機能したままなのでこれは「滅想定」に到達していず、サマディが立ち現れる状態とは呼びがたい状態です。 「経験」に縛られた方はだいたい同じです。 経験しようと一生懸命なので経験します。 経験からも開放されようとする方向性こそ「瞑想」なのです。 その先にしかサマディは存在しません。 お釈迦さまはこのサマディがまったく別の領域の状態にジャンプすることなので「彼岸に渡る」と表現されました。 サマディは個体意識から神意識への跳躍なのでマインドの質転換と言ってもいいと思われます。 |