아벨(Abel)さんのメッセージ(#6680)への返事 > シヴァの喜びさんのメッセージ(#6676)への返事 > > 功徳を積まない修行は魔境に陥るとA社では習ったわけですが、サリン製造の資金提供と > いう多大な功徳を、皆さん首吊り寸前の極限で積まれたと。というのは冗談として、功徳 > ことに財施っていう問題に関してはどうお考えでしょう。布施・供養の対象は? 対象としては、まずは聖者。これは問題なく理解できると思います。 やはり、聖者に布施・供養することは素晴らしいことだと思います。ただし、在家においてはバランスも大事だと思うので自分の生活が崩れるほどの布施は双方においてマイナスだと考えます。つまり、布施したものも生活に苦しむようではいけないし、布施を受けた方も相手の生活を崩したというカルマを作ることになってしまいます。 出家するならまた話は別だと思いますが。 また、聖者ではなかったとしてもそれを目指している修行者で、お金に対する執着を十分離れていると思われる方へのお布施は有効だと思います。ただし、この場合においては高額のお布施は執着を呼び起こす可能性もあるので、バランスは特に大事かも。 次は、団体。聖者が率いている団体。純粋な慈善団体。 これはあまり説明しなくてもいいと思います。 純粋な慈善団体はそれを見抜く智慧が必要ですが。 最後は、普通の個人。 細心の注意が必要ではあると思いますが、困っている人を助けるのは悪いことではないと思います。 その人に悪影響を与えない程度になら有効だと思います。そういう智慧が必要になりますが。 布施、特に財施の意味合いというものを考えた場合、それは執着の放棄だと思います。 執着しているものを手放すことで 1.自分はこれに執着していないんだ、それからは自由なんだはというメッセージをマイ ンドに与える(マインドはそれを受けて執着から離れ始める) 2.「手放す」ということの方法を学ぶ(これをクセにしていると色んなことの執着を手 放すことが出来るようになります) 3.布施においては益を求めてはいけませんが、財施は「財」のエネルギーや、困ったと きに手を差し伸べられるカルマになります。 だからといって極限の布施をすればいいとは思いません。 在家においてはバランスも大事だし、自分の現状でできる範囲において「手放す」ことを何度も繰り返すことが結局ところ「手放す」ことの意味合いを噛み締め、自分の中に「手放す」という喜びを気付かせ、「手放す」ことを自分の特性の一つにすることができ、そして「手放す」「維持する」「掴みとる」という循環そのものが喜びに変わると思います。 極限の布施は大学だと思います。 保育園の子供にいきなり大学教育をさせたって理解はできないし、苦痛になるだけです。始めは保育園に通わせ、気付き学ばせ、成長に合わせて進学させて・・・それを繰り返して大学に至らせるべきです。 最初は小額から初めて、徐々に、自分マインドの状況に合わせて手放す額を決めればいいと思います(これは自分の執着の状況を金額で確かめられる方法でもありますwするとさらに具体的に手放せるようになります) 他にも色々ありますが、こんな感じでしょうか。 |