ガードナーさんのメッセージ(#6846)への返事 > 麻原はよく他人のカルマを受けたとかほざいていたようですが、 > それは自分が病気になったり、事故にあった時のための逃げ口上に過ぎません。 > > もし風邪を引いたのなら、自分の健康管理が不十分だっただけ。 > 車を壁にぶつけたなら、運転技術が未熟なだけ。 > 他人のカルマなど関係ありません。 > > それを最初に聖者は病気にならないとか、怪我しないなどと思い上がるから、 > いざ自分にアクシデントがあった時は、 > 信者が修行しないからカルマを受けたなどと、 > 人のせいにしてはいけないはずなのに、人のせいにするんです。 > たとえ相手を傷つけても。 > > 仮に百歩譲って、 > 他人のカルマを受けることがあることを前提に話を進めるならば、 > 受けたカルマも自分のカルマです。 > > 人のカルマを受けるカルマがあったのであり、 > 受けたカルマは結局最初から自分のカルマなのです。 > > 麻原が何もしゃべららくなって奇行に走るようになった理由は、 > シャクティーパットで信者のカルマを沢山受けたのは間接的な原因でしかなく、 > 直接的な原因は、すべて麻原本人が犯した悪業に起因するものです。 > > 他人のカルマを受けたという現象は、 > カルマが他人経由で本来の所有者の自分に帰ってきたというだけのことです。 > > よって、中堅幹部が在家信者と面談して、 > 性欲のカルマを受けてジンマシンが出てきたのであるらば、 > それはその幹部が沢山オナニーをしたカルマが返ったためです。 > あるいは、エロ本を買ったカルマが返ったためです。 > 他人は関係ありません。 > > しかし、それではなぜ成就者のはずの人間に性欲のカルマの兆候がでるのかといえば、 > それはその人がスケベだからです。 > 女性を性の対象として見ていて、好んでいるからです。 > > それなのに、幹部は聖者ぶりたいから、自分のスケベさを「証知」できないんです。 > 証知できないから「無知」なんです。 > 無知だから「成就」と麻原から認められるんです。 > > 一般人は、うぶな人を除けば、大抵自分のスケベさは認めます。 > 証知しています。 > > 一般人は、カルマを受けたなどと人のせいにするならば、おかしいと感じます。 > 智慧があります。 > > 一般人は、麻原から見下されます。 > けど、彼に認められるようでは終わりです。 > > 麻原にとってのカルマ理論とは、 > 自分のプライドを満たすための道具であり、 > その害は、元々自己顕示欲の強い信者を、更に傲慢にさせたんだと思います。 こんな禅問答があります。 ある老婆が、一人の修行僧を世話して二十年の時がすぎた。 ある時、修行僧に布施した庵に近所の少女がやって来て、 この美青年の修行僧をいたく気にいり、抱きついて誘惑した。 「さあ、私をどうなさいます?」 僧はまったく動揺せずにいった。 「枯れた木が冬の岩に立つように、私の心はまったく熱くならない」 この言葉を少女から聞いた老婆は、激怒していった。 「自分は、こんな俗物を二十年も世話していたのか!」 そして僧を追い出し、庵も汚らわしいといって焼いてしまった。 これはどういうことでしょうか? 普通、女性の性的な誘惑をはねつけたのであるから、これこそが修行者の取るべき道で、これこそが求道者であり、煩悩が少ない者として褒められてもよさそうですが、 そうではなく、「俗物で汚らわしい」として寺から追い出されたという。 もしも、これが少女ではなく、「桜の木」であったとしたならば、美しい桜の木を目にして、やはりこの僧は、枯れた木のように、心が動かないのだろうか? だとしたら、この僧の心は、石のように無味乾燥で冷たいということになる。桜の木は美しい。その美しいものを、美しいと思う心こそが、「仏の慈悲」につながるものではないのだろうか? 桜の木を愛でる気持ち(全て等しく愛でる気持ち)で少女に接するならば、決して枯れた木のように冷たい心にはならない。少女への慈悲(愛)に満ちた気持ちで、もっと生き生きとした会話があってもおかしくはなかったはず。 つまり、この僧には、少女を「性的対象」と見る意識が元々あるから、「枯れた木のように心は熱くならない」と言ってこれを撥ね付け遮断しようとしていた。ということは、即ちその時点で、この僧は性的な煩悩から実は解放されていないということを物語っているわけで、老婆が「俗物で汚らわしい」と嘆いた理由もここにある(老婆がよっぽど悟っていwそしてこの物語はマインドの落とし穴を実に見事に比喩している) 「では、もしもあなただったら、どう対応したか?」 こう問われたら、皆様はどうでしょうか? その女性を抱いてしまったら、戒律を犯したことになる。もっとも、悟ってしまえば、戒律など守るも守らぬモ自由、仮に少女を抱いたからといって、それは必ずしも問題ではないかもしれない。 ただ、その抱く気持ちが、相手を性的対象として抱くのか、あるいは仏を抱くような気持ちで、真心の愛によって抱くのか、問題はそこではないでしょうか? しかし、だからといってそのまま少女を抱いてしまったのでは面白くない。 何か他に、粋な対応の仕方はないだろうか? 俺が思うに釈迦牟尼は非常に粋な方だったと思っています。だから、彼なら何か面白い返しをしてくれると思うのですが・・・。 |