シヴァの喜びさんのメッセージ(#6848)への返事 > この言葉を少女から聞いた老婆は、激怒していった。 > 「自分は、こんな俗物を二十年も世話していたのか!」 > そして僧を追い出し、庵も汚らわしいといって焼いてしまった。 この話、よく引用される話にて以前にも誰だったか(ウンコ方斬だったかも??)が紹介 してくれたことありましたけど、恥ずかしながら私、ある程度わかるような気はするもの の、十分に理解できてなかったのです。 偽善的だといって怒ったのだろうか? シヴァさんも述べておられる通り田舎の婆さんが そんな深い思いで行動したかどうか疑問だなあ?? 等々、結局よくわからないで今まで きたわけですが、このたびのシヴァさんのご解説でかなり理解が深まったことは確かです。 > もしも、これが少女ではなく、「桜の木」であったとしたならば、美しい桜の木を目にして、やはりこの僧は、枯れた木のように、心が動かないのだろうか? > だとしたら、この僧の心は、石のように無味乾燥で冷たいということになる。桜の木は美しい。その美しいものを、美しいと思う心こそが、「仏の慈悲」につながるものではないのだろうか? > 桜の木を愛でる気持ち(全て等しく愛でる気持ち)で少女に接するならば、決して枯れた木のように冷たい心にはならない。少女への慈悲(愛)に満ちた気持ちで、もっと生き生きとした会話があってもおかしくはなかったはず。 前にこの話が出たときには「据え膳食わぬは何とやら、私なら躊躇無く少女を押し倒して ヤってしまう」と冗談交じりで紛れも無い本心を書いた記憶がありますが、確かに少女への 慈悲という心を背景にした場合にはそれなりの対応がありそうだな、と。私のような煩悩 破戒専門の馬糞外道ではなく、仮にも修行僧ですから、まあ煩悩が無いと言ったら嘘でし ょうけど、私とは勿論違った姿ではあるだろうと。私も、多少は善き心もあるでしょうから、 たとえば自分の煩悩を満たすためにその少女を騙したり悲しませたりするようなことは多分 しないだろうとは思いますが、もし少女が性欲に振り回され修行僧の形状容姿の表面的な 部分に捉われて不道徳な行為に及んできたとした場合、さてどうするか。まあ彼女の利益 となるような方向を出せたらよろしいのでしょうけど、まあ私の場合、あっちが納得して るのなら、まあお互い楽しむ分にはよろしいやおまへんか、ってところで彼女に感覚的な 歓びを最大限与えるべく努力してしまうであろうと(笑)。 より昇華した形で彼女の最大の利益となる方向性っていうと、どうしたらよろしいのか? >この物語はマインドの落とし穴を実に見事に比喩している シヴァさんの詳しいご説明で前よりはかなりよく理解できた気はします。 > こう問われたら、皆様はどうでしょうか? > その女性を抱いてしまったら、戒律を犯したことになる。もっとも、悟ってしまえば、戒律など守るも守らぬモ自由、仮に少女を抱いたからといって、それは必ずしも問題ではないかもしれない。 最終不完全解脱者の社長なら、後日その少女を正悟師に認定され・・・ ←馬糞外道発想懺悔w > ただ、その抱く気持ちが、相手を性的対象として抱くのか、あるいは仏を抱くような気持ちで、真心の愛によって抱くのか、問題はそこではないでしょうか? ある程度わかるようでもあり・・・う〜ん、タントリズムが絡んでくるとかでの解釈と いうことになるのでしょうか。非常に曖昧にしかわかりません。 > しかし、だからといってそのまま少女を抱いてしまったのでは面白くない。 > 何か他に、粋な対応の仕方はないだろうか? > 俺が思うに釈迦牟尼は非常に粋な方だったと思っています。だから、彼なら何か面白い返しをしてくれると思うのですが・・・。 話かわりますけど、前にも書いたのですが、お釈迦様がスジャータから乳粥の供養を受け られたって話、体裁よく象徴的に書かれてますが、実はお釈迦様はスジャータの乳房から 直接乳を飲まれた、あるいは要するに「ヤった」のではなかろうかって気がしてならない のですが(笑)。 ↑ 汚れた妄想を全ての仏教徒に対して懺悔w |