아벨(Abel)さんのメッセージ(#12482)への返事 > 浄土系と、キリスト教を代表とする一神教(ユダヤ・キリスト・イスラム)との類似性に > ついては、一寸過剰に類似性を描いた出家とその弟子などでも特に指摘されてるところ > だと思いますが、「絶対神への絶対帰依」という姿勢は一神教にこそ特有のものにて、日本人 > 特有のものではないと思います。 はっきり申せば、「絶対神」などというものを厳密に定義して考えられない、 というのも日本人の特徴にて、 キリスト教と比べると、やっぱり似て非なるものなんですよ。 一番近い扱いをしていたのが明治以降の「天皇」でしょうけれども、 これとて中途半端に輸入した「絶対神」の概念やイメージを、 そのままの扱い方である、目に見えない神の実感・帰依なんて日本人には無理だから、 既存の高貴な血統の当主である天皇を、日本神話の神々の子孫という、 これまた日本人にわかりやすい血族概念を利用して「絶対神」の代わりに立て、 国威発揚のために利用したものでしょう。 キリスト教の「神」の概念をそのまま受け入れられない日本人の浄土信仰など、 やっぱり、「似て非なるもの」であることを象徴していると思います。 そもそも、日本の神様というのは、 おそらく我々が現代の科学技術を持って古代日本に乗り込めば、 我々がその神々であると古代日本人に思われてしまうであろう程度のものです。 つまり、当時の人間レベルさえ凌駕していて、 彼らの願いをある程度叶えてあげることができれば、立派に神様だったでしょう。 第一、形があり、質量を持っている人体であることを理由に、 神様ではないことがばれたりはしないと。(笑) だからぶっちゃけ、ちょっと偉ければ神様になれると。 それに対してキリスト教の神様の場合、 神様の使わされた息子であるナザレのイエス以外で、 形と質量を持った物理的に人間である者をつかまえて神様とはいいません。 だから、「天皇=神」のような発想が起きるわけがないのです。 従って、「本来の日本人」と「本来のキリスト教徒」を考えると、 いずれも生きている人間を「絶対神」とかそれに準ずる者とすることはあり得ません。 しかし、理由が違っているのです。 日本人の方は、絶対的な神という発想がそもそもないから。 キリスト教徒の方は、形ある人間が絶対にはなれない、と考えているから。 どちらが穏健であるかは、歴史が実証している通りです。 > ぶっちゃけた話、本質的な部分を下々に知られてしまったら、「金を巻き上げる」もとい > 「衆生に功徳を積んでいただく」という「宗教団体」の目的遂行もとい衆生済度、衆生の > 利益だけを考える慈愛の心にとって障害になるからではないでしょうかw。 その衆生に何をどうしてあげることが救済なのか、 それが問題になってきますな。 警察ではありませんが、 「何かの理由でそれは生まれたが、生まれてしまうと何かの理由が必要になる」 という理論はここにも出てくるようです。 苦しむ衆生がいたから救済の団体は生まれたが、 その団体が救済団体であり続けるためには、 苦しむ衆生が無尽蔵に必要である、と。 つまり、全員が救済されてしまった日には、救済団体は商売上がったり・・・。(笑) > 昔は素人が聖書を読むことすら禁じられていたと。現在はそれが行き過ぎというか、アホな > 聖書解釈で輸血拒否なんていうキチガイもいるわけですから、物事何事も中道が肝心にて、 > ある程度は「よらしむべし、知らしむべからず」的な部分にも評価できる面があるのかも。 輸血拒否ってのは、聖書のユダヤ教的使用法ですね。ww > 一言でいえば、妄信もとい絶対帰依を貫いた人はそれなりにたすかっているかと。 そりゃたすかるでしょう。 助けるだけの権力のある団体なんですから、恩恵を与えるくらい、朝飯前。 > 先にも書いた通り、キリスト教こそ絶対神への帰依だけを要求する信仰姿勢が一層顕著だと > 思いますから、人類一般の問題では? この点も、人類一般どころか、一神教とは顕著な違いがあります。 「よらしむべし、しらしむべからず」は共通でも、 日本人は基本的にしらされていなければ、崇拝、畏怖しかしません。 一神教の場合、しらされていない人を「兵隊」として使うのです。 悪質な洗脳が含まれているのは一神教の方です。 しかし、それに慣れていない日本人が、 オウムのようなキリスト教的で、しかも絶対なのが生身のグル、 ということになってしまうと、 ・・・かなりやらかしてしまうわけですなあ。wwww |