元芝さんのメッセージ(#31651)への返事 > では発光しているのは本当に自身なのですか? > 本当に自身が発光している? > それはどうやって証明されますか? 一番最初の言い方は、 > > 内面の光が強まるのであれば話が違うのでは? 少なくとも比喩としての > > 光学現象においては。 比喩における、恒星や電球のことを言ってるわけですから、元芝さんが仰る「光が強まれば 闇も深くなる」というのは、あくまで心の場合ということですね。 > そして、光も闇も自身ではなく「自分自身」だと信じているもの、これがヨーガや仏教が言っていることなのでは? > だからこそ光が闇を濃くし結果両方に強く巻き込まれるのでは? 捉われるな、と仰ったことは、まさにその通りだと非常に納得できるところですが、世間的 な素朴な発想においても、善業優位で誰からも徳があると思われている人もいれば、아벨(Abel) のように陰謀ばかり考えてる香具師もいると。まあ「わたくし」という概念については、私 の確信としては、アーカシックネットワークにおける端末がヴァーチャルなイメージを見せて るだけだと思いますが、あるクライアントPCがメンテが行き届いてウイルスも無くデフラグ も行き届いてレジストリのゴミも無い状態だとすると、それによるデメリットって無いので ないかなあと。 > 自身を「発光体」だと捉えるならばそうでない「闇」も同時に定義され、発光体であるがゆえに「自身が生じさせたもの」である「闇」もまた自分の一部となってしまいます。これはいかが? > 発光体であるがゆえにその反対の極である「闇」は必ず対であるから。 統一教会の単純な二元論、二性性相のドグマを連想してしまいます。 > 発光することが無かったら・・・その時は闇は我々自身なのだし。 > 闇とは単純に「光が無い」という現象なのですから。 体験してないので心についてのメカニズムはわかりません。 > 最近は軽い言葉になってしまったので使いたくありませんが「一元」ということを考えると「光」かならず「闇」と対である。「一元」は「光でも闇でもないもの(二元を越えたもの。あるいはそれを包含した混合体にして越えたもの)」だから光は「二元」に属するものだとは理論的に推察できます。これはこの世においては普遍的です。逆の闇もそうです。 > そして、心(マインド」というものは「この世そのもの」と言い表してもいいものです。 > 心がこの世を作っているから。 そういう表現はありだと十分に思います。マインドというのは概念としてどの程度の深さ の心の部分のことを表現してるのでしょ? > つまり、光も闇も「心の中にあるからそれは存在する」のです。 > 光だけの世界では光は意味を失います。対比する闇が無いから。 > 闇だけの世界では光は意味を失います。対比する光が無いから。 闇が意味を失うですね。ビッグバン以前の虚空期の宇宙と宇宙論などを思ってしまうと。 子供の頃から、考えたら基地外になってしまうと教えられた対象。 > 光と闇とは「この心の世界では必ずセットです」 心の世界限定の話ならわかると。 > お互いがいないと存在できないから。 > 空の理論から考えても目の前の諸現象は全て我らの心の中の諸現象です。 > 故に、心の中には光も闇も存在します。 > これらのことから「発光しているもの」は別に存在していてそれは我々自身ではない。 > 「発光しているもの」が「存在」している以上「闇」もまた存在する。 そりゃそうでしょうけど、この場合の光というのは、ネットワーク上でサーバからの何らか の介入と。 > 光が強くなれば闇もまた濃くなる。 これは統一教会の教義と同様、ドグマに過ぎないと思います。納得しません。 > これらはこの世においては普遍的。ならば「心の中においても普遍的」な現象。 恒星や電球においては成り立たないです。心の中においては成り立つかもしれないかと。 > それらを「自身」だと勘違いしているのが「我々」だと。 私は少なくとも理論的には勘違いしてないです。やってることは、スタンドアロンのPCが 強烈にジコチュ〜に行動してますがwww > 「光」も「闇」も見つめている存在(あるいは非存在)がそこにあります。 > 何故ならばアベルさんが仰るとおり自身が「発光体」なら闇は内部には無いことになります。 また歌になりますがw ♪光を放って 歓喜を食べながら 空中を飛び 苦悩無く すべての衆生平等だ 私は無煩天から降りてきた魂だとサンデーさんから言われたので、きっと自らが発光体 だったときの記憶があるのでしょうね。 > 光にも闇にも執着しない。 > これが肝要、と言うのは以上のことからです。 要するに煎じ詰めればこういうことでしょ。執着しないと。 > 功徳を積んでもそれに何かを期待しない(執着しない) > 悪業はなるべく積まない(悪徳の味に酔わない) > これが中道だと思います。 > これは瞑想体験ではなくて思考のみの話です。 ということなら完全に理解可能です。思考というのは超苦手で生活体験の直感優先ですが。 |