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Message#41452 2011年1月1日(土)14時28分 From: 和井 恵 | |
| YASUさんのメッセージ(#41417)への返事
> 沙門果経には、いろいろ書いてあって、 > まるで、原始仏教の行法のカタログみたいだと思いましたね。 > わたしは最高の経典だと思います。
「沙門果経」とまったく同じ修行プロセスが、他の長部経典でも説かれています。 ですから、「沙門果経」を最高の経典だと思うのは、他の経典を知らないからだと思います。 (私も、去年の初めまでは、 YASUさんとまったく同じ状態でした。)
> それを読んでいると、ソンシが言っていたように、 > 超能力とか神通力がもれなく付録として付いて来るみたいです。
「ソンシが言っていた」というのは、単純に、釈尊の経典の受け売りをしていただけです。
> しかるに、オウムではある程度は付くみたいですが、 > あまり芳しくはないようです。
ダルドリー・シッディ(カエル跳び)などを「神足通」の前段階などと言って結びつけ、 それらしき夢(前生の夢?)と「宿命智」とを結びつけるのは、かなりの無理があります。 「ある程度は付く」というのは、ほとんど「思い込み(誤解)」なのではないでしょうか?
> 和井恵さんのブログを見てもサッパリ分からないですが、 > それはどういう差なのか?なんて考える今日この頃ですが、 > > やはり、神通力とかは天界や阿修羅界に相当する功徳が身に付かなければ、 > 発現しないんでしょうかね。 > > グルや本尊への帰依を大事にする点で、オウムは大乗仏教の範疇ですから、 > それを自分に引っ張ってきて、 > 借り物のエネルギーに酔っているという感じかな。
漏尽智へと至るプロセスを詳しく描いている経典は、「沙門果経」意外にも沢山あります。 そして、「沙門果経」だけを読んでいても、幾つかのヒントを見つけることは出来ても、 そのプロセスを実践するための、具体的な修行方法を知る(見つける)ことはできません。 他の経典に書かれていることと照らし合わせて、欠落している内容を補完していく作業が必要なのです。
オウムで神通力が顕現しなかったのは、正しい教えと修行方法を知らず、実践をしていなかったからです。 彼らは、阿羅漢果どころか、最初の「預流果(三結を断じていること)」すら得てはいなかったのです。
何故、そう断言できるのかというと、問題は、三結(有身見・禁戒取・疑)の中の、特に「禁戒取」の部分。
これは、間違った戒律や教えを盲信して、それに執着してしまっていることを指しています。 これに囚われてしまっていると、正しい修行を進めることが出来なくなってしまうのです。
例えば、「修行をするためには功徳が必要だ」などという教えを、釈尊は比丘たちに説いていません。
修行をするのに「功徳(善業)」を強調し始めたのは、おそらく大乗仏教になってからだと思います。 (六波羅密の修行の最初に「布施」を配したために、そのような理論が後に成立してしまったのでしょう)
しかも、この「六波羅密」の最後の「智慧波羅密」の内容は、釈尊の説いた「七科三七道品」に当たるのです。
註:七科三七道品 … 八正道・四念処・七覚支・四神足・五根・五力・四正断、の修行法の総称。 「智慧波羅密」が七科三七道品であるという説明は、「大般若経」や「大智度論」の中に明記されています。
そして「功徳(善業)」は、転生を良くすることには役立ちますが、解脱や悟りの修行とは特に何も関係がありません。
ですから「神通力は、功徳が身に付くと発現する」というのは、何の根拠もない「妄想」にしか過ぎないのです。 そのような話しは、いくら経典群のあちこちを探し求めてみても、何処にも、一切、まったく語られていません。
そもそも、功徳を積むことを教えているのは、天界転生を目指している「在家信者」に対してだけなのです。 この教えとはまったく別に、解脱・悟りを目指す比丘たちに対しては、
〈 黒でもなく白でもない果報を持つ、黒でもなく白でもない業であり、業の消滅に導く業 〉
というものを、釈尊は経典の中で説いていたのです。
註:黒い業は悪業、黒い果報は苦しみ、白い業は善業、つまり「功徳」を積むことを表しています。
そして、この〈 業の消滅に導く業 〉とは、具体的には何を指しているのかと言うと、 それは、私たち誰もが、生まれつきすでに持っている「思(意思)・チェータナー」のことなのです。
つまり、釈尊の教えでは、本来、私たちが持っている「意思(自由意思)」の勝れた力〈 業の消滅に導く業 〉を、 「無明」から派生している「無知(禁戒取や疑など)が、無力化してしまっているのだ!!と説いているのです。
本当は、本来は、もっと努力出来るのに、勝手に「功徳が足りないから」と自己暗示をかけて、すぐに挫折してしまう。 「功徳が足りない」「カルマが悪い」「運がない」「帰依が足りない」など、「自力(自分の努力)」ではなく「他力」のせいにする。 そして、「他力(自己が依存する何か)」に縋(すが)ることで、何とか楽をしていい結果を出したいと願ってしまっている。
つまり、間違った「邪見解・邪思惟」が、潜在意識に働きかけて「勝れた自力」の発現を、無力化してしまっているのです。
ですから、「グルや本尊への帰依」などというものも、釈尊の教えにはありません。 何処からか「エネルギー(あるいは恩寵など)」を引っ張って来る、というような発想そのものが「皆無」なのです。 (何かの力に依存して生起するものは「無常」です。ですからそれは、必ず後で「苦しみ」に変化するのです。)
そういう意味では、仏教(比丘たちに説いた釈尊の教法)は、宗教などではありません。 その理由は、「本尊(神・仏)」や、それに対する「帰依(信仰)」といったものを、まったく説いていないからです。
自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。
自分がつくり、自分から生じ、自分から起こった悪が智慧悪しき人を打ちくだく。 ──金剛石が宝石を打ちくだくように。
極めて性(たち)の悪い人は、仇敵がかれの不幸を望むとおりのことを、自分に対してなす。 ──蔓草が沙羅の木にまといつくように。
みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。 浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない。
たとい他人にとっていかに大事であろうとも、 (自分ではない)他人の目的のために自分のつとめを捨て去ってはならぬ。 自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ。
【 「ダンマパダ(真理の言葉)】第十二章 自己 】
特に、この中の、
〈 浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない 〉
この詩句を、解脱・悟りを志(こころざ)す修行者ならば、心に刻み込む必要があるでしょうね…
──釈尊は比丘たちに「信」を説いていますが、これは、神や仏やグルを「信仰(帰依)」することではありません。
釈尊の説いた「教法(四諦八正道)」を、正しく了知して、それを「確信」しなさい、と説いているのです。 そしてその「確信」が、自己の「「思(意思の力)・チェータナー」を自立(迷妄から離脱)させるのです。
ですから「グルや本尊への帰依(そのエネルギーに依存する)」などという教えは、釈尊の教えからすれば、 「五下分結」の、そして「三結」の二番目にあたる、「禁戒取」として扱われてしまうような内容なのです。 それは、「間違った教えや戒律を守ろうとする執着」と成って、その「誤謬見解(邪見解・邪思惟)」が、 「勝れた意思の力(自力)」の発現を、阻害し、妨害し、そしてさらには無力化させてしまうのです。
「三結(有身見・禁戒取・疑)」は、全て「誤謬見解(間違った見解に囚われていること)」に属します。 ですから「見道(多聞・教えを学ぶことで見解を正していく修行)」によって捨断することが出来るのです。
そして、この「三結」を断ずることで、「預流果」を得た後で、初めて本当の、本格的な実践(修道)が始まるのです。
──ちなみに、大乗仏教の教義で、とても重要視されている「四無量心」という教えの場合などにしても、 アーガマの中では、「四梵住」と呼ばれていて、「梵天界」へ転生を得るための瞑想法として説かれています。 そしてそれは主に、在家の人たちに向けて説かれている教えなのです(臨終間近に教えを受けて、転生先を定める)。
このように、釈尊の時代には、出家者と在家者との教えが、明確に分けられて説かれ、実践されていたのです。 (これに関しては、幾つかの興味深い、面白いエピソードが、中部経典の中で語られています。)
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