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喫茶Honfleur(オンフルール)の再開を熱望するオウマー・外道達の掲示板

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Message#20050 2009年2月16日(月)13時29分
From: 和井 恵
Re2: 真我
夢野さんのメッセージ(#20032)への返事

> > 結局、真我はある、という話になったの、、
>
> 和井さんと立場が異なるからぼくのほうは「真我はありうる」説になります。

じゃあ、私は「無いこともない」説なのかしらん♪

> でも手段として、真我はないと思っておけばそれを体験しやすいでしょう
> 無我説といえども真我はないように断定する根拠が不明

そうですね。
何処にもそれだと認識できるようなモノは存在しない、
と、単にそれだけを言っているわけだから…

> > 麻原の擁護がしたいわけ?
> > 漏れが(麻原が真我が流転する)って説は

>  彼の無思考幇助には強く反対しますねー。
> なのでリスクはあっても、思索による体験を自分は重視する方針
> あとそれから、流転するのは真我でなく魂(って幻)だと思われます。
> 魂に語弊があれば自我ですかね。真我説と無我説は自我の否定が共通の目的かなと

自我という言葉よりも、仮我の方が解りやすいかも…
でもそうすると、じゃあ、仮の自己ではない本物は何処にあるんだ、
それ(本当の私)は何なのだ、という「突っ込み」がすぐに入りそうだな…

ちなみにサーンキャ哲学では、
「真我(プルシャ)」と「プラクリティ(根本源質)」とに分けて、
「プラクリティ」が三グナの働きによって「転変」して、
色々なモノを創りだして、有の世界が形成されてゆく、とされています。
心も体も、この「プラクリティ」が転変したモノで形成されているのだそうですよ。

> > 見たことがねえよ、と普通は言うが、麻原の家では(アタシは見た)って奴がいるわけ、、
>
>  理論上は見えないはず

はい、そんなモノは見えません(幻影ならば別だけど)。

> > 「我思う故に、我有り」という言葉があるけど、
>
> デカルトの真意はまだよく知らぬが
>「思うゆえに思いあり」のほうがベターとか諸説複雑で、
> 言葉の不完全性をあらためて感じます

うーん、「行為によって、その行為をしている主体(自分の存在)があると知る」かな…

そして、デカルトの場合は思索家だったから、
「思う」という具体的な行為が一番最初に浮かんだのだろうし、
その「思うこと(思考)」が自己を意義付ける「一番大切なモノ」だったのでは?

受動的な「認知」ではなくて、能動的な「行為」を使って、その主体を知ろうとした。
でも、どちらにしても、それらの「手がかり(依処)」が消えれば、認知も不能。

Message#20049 2009年2月16日(月)11時36分
From: 和井 恵
Re4:真我
キャンディさんのメッセージ(#20034)への返事

> YASUさんのメッセージ(#20033)への返事
>
> >> 「真我なんて無い!」とわたしは思います。
> > 修行者でも、自分自身を消滅させるのに恐怖心を感ずる人は多いかもしれません。
> >
>
> 消えてなくなりたい、と思うことがよくあります
> また、何かの原因体みたいのが残っていて、生まれかわるのでは?と
> 思うと、がんばって今生のうちに(再生の因)を滅ぼし尽くして
> 二度と娑婆に現れなくなりたいです

それは、「負の生存渇愛(自己嫌悪)」ですね。
エロス(生)ではなくて、タナトス(死)の方…
釈迦は、それも煩悩の一つなのだと教えています。
でもそれは、修行者という面から捉えた場合、
生を望む現世の人達よりも、より修行者向きなのだと思います。

昔のインド社会で修行者になった人達の中には、
自己の消滅によって輪廻を断ちたいと願う人達も多かったみたいですね。

ちなみに、釈迦の二大弟子のサーリプッタやマハーモッガラーナは、
生でも死でもなくて、不死を求めて修行に入ったのだと伝えられています。

(古来のヴェーダでは、真我を悟ることを「不死を得る」と表現しています)

遊行中のアッサージと出逢ったサーリプッタは、
彼から、釈迦の説く「縁起の法」を聞いて、その意味を瞬時に理解します。
そして、法友であるマハーモッガラーナのもとへと急いで帰りました。
帰ってきたサーリプッタの姿を一目見ただけて、
マハーモッガラーナはその異変にすぐに気づき、彼に問いかけました。

「友よ、君は不死の道を得たのか?」
「友よ、その通り、私は不死の道を得たのだ」

二人は、どちらかが先に求める道を見つけたならば、
すぐに相手にも伝えることを固く約束し合っていたのです。
そして二人は、釈迦のもとへと向かったのでした。

> 正直、今生の自分には嫌気がさしました
> まわりにも愕然としました
> 生きるのって恐ろしいと思います
> 漏れは日本を平和だと思っていたけど、自分のいた団体があのような
> けしからんところで、自分が害悪の原因になっていたというのが
> なんとも恥ずかしいです
>
> ケロっとだまされる自分も
> 平気で騙す他人にも、嫌気がさしますわ

でもね、その「嫌気」もまた、輪廻を生起させてしまう煩悩の一つなんですよ。

Message#20048 2009年2月16日(月)10時40分
From: 和井 恵
Re3:真我
キャンディさんのメッセージ(#20031)への返事

> 和井さんおひさしぶりです
> お元気ですか?

こんにちは、私は元気ですよ。

> 丁寧な解説ありがとうございました。

どういたとまして、お役に立てたのならば幸いです。

> ある、とか、ない、というのも、見る側の認識の結果、ということですかね

そう、それはあくまでも「対象」に対する認識結果なのです。
自己以外のね。自己は対象にはなれませんから。

> 大乗の教えや空は、漏れにはまだ手が届きません、、
> 般若心境にそんなことが、書いてあるな、くらいな
> 今の解説で、少し理解できた気がしました

おやおや、これは大乗の教えの説明ではありませんよ。
そこのところは誤解しないで下さい。
大乗の教えには、あちこちに誤謬が紛れ込んでいるので、
それらをクリアーしないうちは、あまり手を出さない方がいいかも…

> これらを知るにあたって、なにかお勧めの本やお経はありますか?

残念ながら、ありません。
部分的に参考にするのなら、それなりにある程度はあると思いますけど…
でも、その本の記述の中の、何処が正しくて何処が誤りなのかなんて、
いちいちチェックするのは大変でしょ?
そしてそれが出来るんなら、最初から読む必要も無いわけだし…

> > だって、「尋」や「伺」、「喜」や「楽」といった、
> > 四禅定の中で確認するそれらの要素に「形状(色や形)」などがあると思いますか?
> > まぁ、「ある」と思うと、それが見えてしまうのかも知れませんね。
>
> テーらわーだ協会かな、ホムペで、形状のあるものに対する集中が色界の禅定で
> 心の状態に対する集中が無色だと、書いてあったかな

例えば、骨の「白」という属性(色)に、意識を集中して瞑想するやり方がある、
というような説明を、何処かで読んだような記憶が…

私が説明しているのは、インドで物質を構成している元素として見なされていた、
4つの要素(エレメント)、「地・水・火・風」を対象として瞑想する方法なのです。

昔、インターネットで「如実知見」という、
テーラーワーダ仏教の具体的な実践法を、詳細に説明した文章がアップされていました。
(今は、そのHPは消去されてしまっていますけど)
それを読んだときに、思わずため息が出てしまったんですね。
こんなことをまともにやっていたら、確かに解脱なんて一生かかっても出来ないだろうな…
何で、あんなに七面倒くさい(難解な)ことを、するようになってしまったんだろう?
おそらく、残されたアーガマの記述の中から、あれこれ色々な解釈を造りだして、
それらに基づいた、色々な(面倒な)修行法を編み出してしまったんでしょうね。

> 2ちゃんで無駄話にふけって、なかなか大事なことには時間が避けませんwww

それは、自業自得(為したことの結果を受け取るのみ)ですねww

> どうもありがとうございました

どういたしまして。

Message#20047 2009年2月16日(月)09時28分
From: 和井 恵
Re2:真我
キャンディさんのメッセージ(#20022)への返事

> 以前にネットでだったか、日本仏教協会?(違うかも、よく覚えてない)だったかが
> (輪廻は存在しない)って結論づけた、って話を、読んだのよ

ほー、それはそれは…

> 漏れはきょとんとした
> オウムでは輪廻転生があると、当然のごとく言ってたんで
> 気の毒に、仏教を学んでも縁の無い人は間違ったことを教わるんだと
> 思ったが、一方で権威のある人らがそう間違ったことを言うはずないなと

「権威のある人らがそう間違ったことを言うはずない」

これを心理学では「威光暗示」という心理的な作用なのだと説明しています。
これは、一種の「盲信(思い込み)」だと言えるでしょうね。

> で、何を根拠にその仏教協会が輪廻は無いと言い切ったのか、調べてないから
> しらんが、その後、ボチボチ本を読むに
> (すべては無常であり、苦であり、非我だか無我だから、実存しない)と
> いうならば、(自分自身も実在しないはずの五蘊で構成されているんであって
> じゃあ、自分というのは実在しない)(じゃ、実在しないはずの自分が輪廻するはずない)
> という理屈なのかなあ、と思った

【自分自身も実在しないはずの五蘊で構成されている】

この部分は、ちょっと違いますね。
五蘊とは、「自分自身がそこに在る」という認識(手がかりとなる証拠)を、
生起(感受)させてくれる「対象」の集まりを示す言葉なのです。

つまり、目は目を直接見ることは出来ないけれど、
例えば自己を映し出す「鏡」が目の前にあれば、そこに映る自分の姿を見ることが出来ます。
しかし、その対象はあくまでも「虚像」なので、目そのもの(実像・本物)ではありません。

五蘊とは、つまり、自己が投影された「虚像の集合体」のことなのです。
自分がちゃんと存在してるんだと、自分に認識させてくれる「対象」の集まりなのです。

ですから、その「虚像」を構成する五つの要素も、
その集まりによって形成されている全体としての自己像も、自己そのものでは無いのです。
だから釈迦は、「五蘊非我(それは、アートマンではない)」の教えを説いたのです。

そして無我とは、自己に関わる問題というよりも、もっと一般的な意味で使われていて、
森羅万象の全ての存在には、不変的な実体など無く、縁起によって生滅するだけの、
「無常(変化する一時的な現象)」があるだけなのだ、という意味で使われるのです。

> なんで真我はあるということになったのか
> ご説明ください

正しくは「無いわけではない(否定の否定)」と言っているのです。
「ある」と言ってしまうと、「言葉の持つ虚妄性の罠」に落ちてしまうから…

> 漏れも知識がないんで、変なことをわめいているかもしれんが
> 輪廻の消滅には、我の消滅が必要なんじゃ、と
> うっすら想像してます
> 我があったら、そこから展開していくんですよね

あのね、輪廻をしているのは「自己」では無いのです。
輪廻をしているのは、自己を認識させている「五蘊(虚像)」の方なんです。

五蘊は、森羅万象(有)の中に含まれるから、それは無常の存在ですよね。
常に変化して、生じたら必ず滅する(崩れ去る)ものなのです。
そうすると、五蘊を自分だと同一視してしまっているいる自己は、
まるで、自分自身も崩れ去ってしまうような錯覚(自己喪失の恐怖)に襲われる。
そこで、一生懸命に、何とかそれを食い止めようとする。

これは、砂浜で、砂のお城を一生懸命に造っている子供の状態に似ているんです。
お城が大好きな子供は、砂を使ってそれを完成させようとします。
しかしそのお城は、砂で出来ているので、しばらくすると崩れてしまいます。
だけどそれが嫌だから、子供はそれをまた造り始めるのです。

造っては崩れ、そしてまた造っては崩れていく…
その繰り返しが、果てしなく延々と続いている状態、これが輪廻なんです。

「崩れ去るのが嫌で、何とか砂の城を保持したい」と必死に願う心の働き、
これが、釈迦が言っている「生存渇愛」という煩悩なんです。
そしてこの煩悩が、新しい(次の)五蘊を生起させる因なんですね。
つまり、輪廻を継続させる「行(潜在的な形成力)」となるのです。

五蘊が自分自身だと思いこむ錯覚(無明)によって、
それを何とか保持したいという欲求(行・生存渇愛)が生まれるのです。

> それとも(我はある、いや無い)と(考えている)こと自体が
> すでに間違ったことなのかもね

「ある」と見てしまうのは「常見」で、「ない」と見てしまうのは「断見」です。

これらは共に「対象」に対する認識の種類を示しているのです。
認識の持つ二つのパターン(ある・ない)をね。

認識というのは、対象に対する働きなので自己そのものには使えないのです。
そこで、無理やり自己を対象化して認識しようとする…
すると、自己は自己では無くなり虚像化してしまうので、
パラドックス(矛盾・迷妄・無明)の罠に落ちてしまうのです。

> 釈迦はサマディを煮詰めていって、最終段階で
> (この考えるということは、劣ったことである)として
> 滅想受だか、想受滅だかに、入ったんだとか?

「考える」ということが劣っているとは思いませんが、
「明智」を得ていない状態の思考には、限界(無理)があるのです。

これは、ジグソーパズルの遊びに似ています。
10個のピースのパズルを完成させるのは簡単でも、
100個のピースだと難しいでしょ?
1000個の場合ではどうでしょうか?
つまり、分析すればするほど解りにくくなってゆく…

そして、予(あらかじ)め、
そのパズルの「完成図(全体の絵)」が解っていないと、
ピースを正しく組み立てることは不可能に近いですよね。

明智とは、この完成図を知る(直視する)能力のことなのです。
ですから、この能力を得てから思考した方が、
途中で悩んだり迷ったりしなくて済むので、楽でいいと思いますよ。

釈迦はこの状態を「慧解脱する」と表現していますけどね。

この「明(智)」は、自己が真我を「自覚」した瞬間に、
その「自覚」の副作用として発現するのです。

つまり、自己が何かということが解った瞬間に、
自己以外のモノ(一切という全体図)が何か、ということも自動的に解るのです。

一種の反動形成ですよね、これは…

Message#20030 2009年2月15日(日)18時36分
From: 和井 恵
Re:真我
キャンディさんのメッセージ(#20021)への返事

> 結局、真我はある、という話になったの、、

この「ある」という言葉は、
何処かに「(認識の対象として)在る」という意味ですよね。
何処かを探せば見つけることが出来るモノだ…とね。

そう言う意味では、真我(自分そのもの)は、
「認識の対象外」なので、見つけることは出来ません。

目は、目そのものを見ることは出来ない。
刀は、刀自身を切ることは出来ない。

ですから、それを認識することが出来ない(不可知)という意味では、
「ある」とは言えないのです。

「我思う故に、我有り」という言葉があるけど、
思おうが、思うまいが、自分はいますよね。
思考を停止したら(思うことを止めてしまったら)、
じゃあ、自分はいなくなるのか?と言えば、そんなことは無いのです。
ただ、自分の存在を確認できる「何か(手がかり)」が消えてしまうだけ。

そうすると、自己喪失感に囚われてしまって不安になる(無明)。
そこで、自分を安心させてくれる「根拠」を探し始めるのです(行)。

そこから迷妄の連鎖が起きてしまうのです。

> 麻原の擁護がしたいわけ?
> 漏れが(麻原が真我が流転する)って説は
> 釈迦は無我を説いたのに、馬鹿じゃないの、って
> 散々こき下ろしたから、
> ムキになって
> 真我はあるんだ、って言ってた奴がいて
> 気に入らないんだけどね

彼の教え(真我に関する部分)は、仏教ではなくて、
「サーンキャ哲学」という、インド思想をアレンジして真似たものなのです。

それは「二元的多元論」と呼ばれているもので、存在するモノを、
主体(自己・知覚するモノ)と客体(他・知覚される対象)の二つに分け、
その主体自身も「個別的に」多数存在している、と考える思想なのです。

> だって、真我を知るっていったら、真我はあるって、定義なんでそ
> ちょっと、詳しい論議調べてないんでわかんないんだけど
> みなさんは、真我があるということにしたんだ?

「真我はあると定義する」と、間違い(誤解)を生じてしまうのです。

「ある」という言葉(概念)から生じる思考(認識・受け止め方)は、
「あるとすれば、それは何処かにあるに違いない」という、
心理的な「連鎖反応(条件反射的な連想)」を引き起こすのです。

そうすると、外界(現象世界)に対しては五感(眼・耳・鼻・舌・肌)で、
内界(心象世界)に対しては、六番目の感(意)を使って、
それ(真の自己)を確認したいという衝動(行)が生じてしまうのです。

「ある」とするならば、、それは「何処に」あるのだろうか?

という、間違った「思考の連鎖反応」に囚われ始めてしまうのです。

> じゃあ、麻原が(真我がニルバーナから落下して流転する)とした
> 定義に、異論はないということなの?
> 漏れは、麻原が仏教理解があまりないのに適当にヨガとかとくっ付けて
> 自分のわかりやすくアレンジしたと思いましたよ

キャンディちゃんの考え方で、合っていると思いますよ。
その考え方が間違っていると、私は一言も言っていませんから。

> 少なくとも麻原はそこまで細かく考えるよりも
> 金もうけのためにわかりやすい説をとったと思っている

彼は、元々ヨガ行者でしょ?
ヨガの根本経典を頼りに修行をしたと言っていましたよね。

それが途中から、仏教を取り入れて、
自己流にアレンジして教えを説き始めるようになった…

> まあ、釈迦は、形而上のことは語らないというやり方をして
> んなことは知らなくても、苦はあり、苦は起き上がるから消滅させておけ
> 目のある人はそれだけやればいいんだ、と
> 言ったようで

まぁ、似たようなことは言ってましたよね、確かに。

> だって、あるとか、ないとかギャアギャアいうけど
> 見たことがねえよ、と普通は言うが、麻原の家では(アタシは見た)って奴がいるわけ、、
> 麻原は真我を見たって
> あそこで丸くなって大きくなったり小さくなったりしていたって

それが事実だとすれば、その時点で、
彼は、釈迦の言っていたような「解脱」や「悟り」を得てはいなかった、
ということが言えるでしょうね、確実に。

瞑想の怖いところは、「見たいモノが見えてしまう」、
「体験したいことを体験できてしまう」ということなんです。
瞑想の対象となる「心象世界」を造り上げているのは、自分の心なのですから…

釈迦の言行録(アーガマ)を読んでみると、
彼の教えていた瞑想は、何かを「観る(体験する)」という瞑想ではなくて、
観た後で、それらの対象を一つ一つ消してゆく(そこから離脱する)瞑想を指導しています。

四禅定の第一段階では、まず「尋」と「伺」とを確認します。
そして、それを消す(離れる)と、次の「喜」が、より鮮明に顕れてくる。

太陽が見えていると、その光に遮断されて他のモノが見えずに太陽しか見えません。
しかし、その太陽を消すと、今度はそれまで見えなかった月が見えるようになります。
そしてさらに月を消すと、こんどは星がはきりと見えるようになる…

ひとつ説明をしておくと、四禅定は「色界の瞑想」ではありません。
深まっていく瞑想の状態を、四段階に分けて説明したものなのです。

だって、「尋」や「伺」、「喜」や「楽」といった、
四禅定の中で確認するそれらの要素に「形状(色や形)」などがあると思いますか?
まぁ、「ある」と思うと、それが見えてしまうのかも知れませんね。

私は、色界の瞑想とは、四禅定とは別のもの(他の瞑想法のこと)だと考えています。

四禅定から四無色定へそのまま移行することは出来ません。
四禅定の第四段階の次の段階で、「空無辺処」が顕れて来るわけでは無いのです。

四無色定の「空無辺処」へと移行するためには、
「四大(地・水・火・風)の瞑想」から入る必要があるのです。

地 → 水 → 火 → 風 そして、→ 空 なのです。
(これらの4つの「元素」には、それぞれ特有の「色」があるとされているのです。)

Message#20011 2009年2月14日(土)16時17分
From: 和井 恵
Re2: ●出家会員の住居(埼玉県吉川市)での立入検査について
夢野さんのメッセージ(#20010)への返事

> 釈迦は非我のみを語って人を真我に近づけたというのはさすがです。
> 逆にいうと非我を知らずに真我は理解できなくて、ゆえに無の境地は不安定だと思われる
> それと真我を認知するのも不可能的(不可能と断定はしませんが)なのでしょう。
> 目が自分を見られないように

そうですね。

真我を知ること(?〉は、決して不可能ではありません。
釈迦は、それを「如実智見(ありのままに観ること))」によって直知したのですから。

それを実現させるには、「何かに頼って知ろうとすること」を放棄した方が早いのです。

そしてこれは、「理性」よりも、むしろ「感性」を使った方が掴みやすいのですね。
逆に、難しく考え過ぎてしまうと掴めません。

ですから、禅宗の「公案」などでは、相手を思考のパラドックスに追い込んで、
完全な「思考不能・停止状態」を造り上げてゆくのです。
(ですが、ただこれをマニュアル通りにやっても、そうなるとは限りませんけどね)

知ってしまえば「コロンブスの卵」と一緒で、そんなに難しいことでは無かったのだと解ります。
というか、それ自体は、とてもシンプルな「覚醒体験」なのです。
そしてこれは、深い瞑想状態(サマディ)に入らなければ掴めない、というものではありません。

瞑想とは、内界(心の世界=色界と無色界)を探索したり、観照してゆく方法・技法なのです。
ですから、そこをいくら探し見つめても、真我(真の自己)が見つかるわけではないのです。

つまり、意識を外界(現象世界)や内界(心象世界)に向け続けて探索している間は、
その世界の対象(客体)に囚われ続けるがために、「自覚(明智)」が顕現しないのです。
ですから、この瞬間(明智の発現)は、逆に言えば、瞑想中や日常生活、このどちらの場合でも起こりうるのです。

条件さえ上手く合えば(整えることができれば)、日常で瞑想に頼らずに得ることも可能なのです。

コツさえ上手く掴めれば、そんなに難しいモノではない、ということを覚えておいて下さい。
そうしないと、自分で造りだしてしまった「心理的な壁(観念や思い込み)」に邪魔をされて、
自業自得という呪縛状態から抜け出すことが出来なくなってしまいますから…

Message#20008 2009年2月14日(土)15時13分
From: 和井 恵
Re6: ●出家会員の住居(埼玉県吉川市)での立入検査について
YASUさんのメッセージ(#20003)への返事

> でも、それはほとんど実践できる人はいないでしょうな。

実践を出来る「環境」を造っていかないと、無理かも…

そうで無ければ、現世で何度も「現世崩壊」を経験したりするとか、ね。

> 似ているのは「南伝仏教」ですが、代用品にはなるかもしれません。

テーラワーダ仏教は、部派仏教(上座部)の流れを汲むものなので、
昔からの、多くの「誤謬」を抱え込んでしまっているように、私には思えます。
代用はちょっと難しいかもね…

Message#20006 2009年2月14日(土)15時01分
From: 和井 恵
Re4: ●出家会員の住居(埼玉県吉川市)での立入検査について
YASUさんのメッセージ(#20001)への返事

> > 概念化という言葉の罠を避けるためには、
> > 「…ではない(否定)」もしくは、「…でないこともない(否定の否定)」
> > という表現を使うほかは、それを顕す表現方法が無くなってしまうのです。
>
> なんか、昔のatomさんを思い出しました。

atomさんには、私はとても感謝しています。
彼との出逢いとアドバイスが無かったならば、
私はずっと「一元の世界」に留まり続けてしまっていたでしょうから…

> 和井恵さんのブログの大乗仏教論を拝見しておりますが、
> わたしが思ったことは大乗仏教は「月の法」だったと。
>
> 「太陽の法」と「月の法」と世界の宗教を大別すると、
> 原始仏教(の出家者向けの教え)だけは「太陽の法」ですが、
> それ以外は「月の法」になるんです。
>
> 大乗仏教は帰依の対象と合一したり、加護を受けたりするでしょう?
> 諸天、菩薩、如来などという存在のエネルギーみたいなモノを利用したりとか。
> これは月みたいに太陽の光を受けて光るのに似ていると。

面白い教相判釈(教義の比較)ですね。
そして、解りやすくて核心を捉えている説明だと思います。

Message#20005 2009年2月14日(土)14時38分
From: 和井 恵
Re4: ●出家会員の住居(埼玉県吉川市)での立入検査について
아벨(Abel)さんのメッセージ(#19995)への返事

> マハーヤーナの部分については夢野さんの言っておられることも
>和井さんの解説と同じようなことなのではないかというような気もするのですが、

私の解説というと、以前この掲示板で、夢野さんとお話をしたことですか?
「五蘊もまた自己の範疇に入る、と考えるのが実用的」というような説明を、
以前夢野さんにお話ししてしまったことがあるのは覚えていますが、

「ごめんなさい、あれは私の誤りでした。」

あの時は、まだ一元思想に囚われている部分があって、間違った説明をしてしまっていたのです。

ですから、私のgooブログでの説明記事も、今年の1月18日に再開する以前のモノは、
正直に言えば、その「誤謬」の部分が含まれているままなのです。

> ミクでの和井さん、映画の話とかばかりで
>ニセモノではないかという疑心暗鬼もあったのですが間違いなくホンモノの和井さん!

ミクシィで、あまり仏教論ばかり書いてもしょうがないですからね、
それに今回は、プロフィールの方にgooブログの紹介文も載せていますので…

>山本浣腸さんからお誘いの連絡あったのではないかと思いますが、
>今確認したらにご返事いただけなかったとのことでした。

何処に連絡を頂けたのかしら?
もしかして、MSNのHotmailあたりだとしたら、既に使っていないので届かなかったのかも…

> 重ねてですけど今日の18時に新宿駅近くで吹田の奥様を囲むオフ会がありますけど
>ご都合つきませんでしょうか。しつこくて申し訳ありませんが。

今日?2月14日(土)ですか?
多少の時間なら造れるかも知れませんが…
それでいいのかしらね?

> > それは、客観視して説明を始めたとたんに、本当の真我では無くなってしまうからです。
>
> 複数の比喩で、いろんな切り口から、それに近い概念を語るのでも駄目でしょうか?

真の自己の「不可知性」を正しく理解した上で、方便としてあえて説明してみる、
というのは可能かも知れませんが、理解できていない人がほとんどなどなので難しいですね。
余計な観念を造ってしまう確率の方が高い、というか、ほとんどがそうなってしまいます。
相手の人がすでに「慧解脱」をしているのならば、大丈夫ですけど。

> >   アートマンは個の中心にあり認識をするものである。
> >   それは、知るものと知られるものの二元性を越えているので、
> >   アートマン自身は認識の対象にはならないといわれる。
>
> 自分の使ってる電脳網システムからの類推では、集合的無意識の概念の更に延長における
> 個と全体との関係において、フラクタル的な「個」って感じが理解しやすい気がするので
> すが、確かこの点に関してもお釈迦様は無記とされたのでしたっけ。ワンネスかどうかって
> 部分についても。

ふふふ、その考え方は、華厳経の「法界縁起思想」に在る意味とても似ている考え方ですね。
ただ、0元を本当に理解(体得)できていないと、一元が何かも掴めないのです。
0元から一元を掴むことは簡単なのですが、一元から0元を思索(類推)することは、ほとんど不可能ですからね。

数学的には、一元は「全集合」で、0元は「空集合」として捉えることは可能です。
しかし、ここからさらに「全集合」と「空集合」を相対化して捉えようとすると、
その「全集合」は部分集合となって(全集合では無くなる)しまい、
空集合も単なる部分集合に変化して(空集合では無くなる)しまいます。
そして、さらに0と1とを包括した「新しい(?)全集合」が出来上がるかのように見えてしまうのですが…

しかし、実際には依然として、本当の「空集合」は、その新しい「全集合」の範疇外にあるままなのですね、。

う〜ん、禅問答のようになってしまった…

> > 【アートマン自身は認識の対象にはならないといわれる。】
> > この言葉の意味を、誰も本当に理解することができないのは、
> > いったい何故なんでしょうかね?
> > 【「…でない」によってのみ、アートマンが定義されるという。】
> > 釈迦は、この正統な方法に即して「五蘊無我(非我)」を説き、
> > 真我そのものの説明については「無記(沈黙)」を貫いたのです。
>
> このご説明はよく理解できます。
>
> > 真我を客体視(観察の対象化)して、あれこれと考えることは、
> > 解脱や悟りを得るための「大きな障害」になるのです。
>
> 以前上祐さんに直接質問したときも、
>言語化しての説明は不可能と言われましたです。

河本理治さんとの対話を続けていて、ようやく彼の言っている意味が、
チベット仏教などで説いている「識相続(意識の連続体・業異熟果)」のことだと解りました。

しかしこれなども、「無我」の意味が解らずに、「真我の身代わり」を創り上げてしまった誤謬なのですね。
これに囚われ続けている限り、真の解脱や悟りは掴めません。

瞑想は、心の世界を観るものですから、「観たいモノが見えてしまう世界」なのです。

ですから、「識相続(意識の連続体・業異熟果)」などを想定して、
それが「在る」と思ってしまっていれば、それが見えてしまう世界なのです。

つまり、「思想」などの視覚化、体験化という現象を造り上げてしまうのです。

釈迦が採用した瞑想法とは、逆に「心に観えるモノを全て消滅させていく」瞑想法なのです。

そして最後に残るのが「何もない(無相)」という最後の観念。

これを消滅させることによって、心(内なる世界・内界)の解脱が完成し、
心に依って造り出されているのではない(外なる世界・外界の)、
物質的な「肉体」だけが対象として残ったままとなるのです。

いや、この説明も不十分ですね。

この肉体も、実は心が造りだしたモノだと言えなくもない(否定の否定)。

しかし、心の世界とは違って、「相転移(質の変化・念の物質化)」が起きてしまっている世界なのです。
ですから、特殊な瞑想によって、時間をかけて肉体そのものを「変化」させられないこともない(否定の否定)。

チベット仏教で説く「虹の身体」や、仙道などの「陽身」や「還虚」などのようにね…

でもこれは、次元の異なる話しですし、ここでそれを取り上げても意味がないのです。

Message#19992 2009年2月14日(土)08時47分
From: 和井 恵
Re2: ●出家会員の住居(埼玉県吉川市)での立入検査について
夢野さんのメッセージ(#19970)への返事

>  それではコンピューターにたとえて無を0、有を1と置きます。
> この場合0は真我で1は非我ですね。

真我を、このように捉えてしまうのは誤りです。
何故、釈迦は「真の自己」というものを説明しようとしなかったのか?

それは、客観視して説明を始めたとたんに、本当の真我では無くなってしまうからです。

観察対象としての「名称と概念」にしか過ぎなくなってしまうのです。
そして、名色への囚われ(色貪と無色貪)を生起させてしまう。

  アートマン(Atman) は、ヴェーダの宗教で使われる用語で、
  意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。真我とも訳される。
  最も内側 (Inner most)を意味する サンスクリット語の Atma を語源としており、
  アートマンは個の中心にあり認識をするものである。
  それは、知るものと知られるものの二元性を越えているので、
  アートマン自身は認識の対象にはならないといわれる。

  初期のウパニシャッドである『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』では、
  「…でない」によってのみ、アートマンが定義されるという。
  その属性を「…である」と定義することはできないという。
  したがって、「…である」ものではない。
  すなわち、「何でもないもの」すなわち「何かではないもの」
  「有るものではないもの」がアートマンで、
  これは仏教または禅の「無」と同じ意味だととることもできる。

  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


【アートマン自身は認識の対象にはならないといわれる。】

この言葉の意味を、誰も本当に理解することができないのは、
いったい何故なんでしょうかね?

【「…でない」によってのみ、アートマンが定義されるという。】

釈迦は、この正統な方法に即して「五蘊無我(非我)」を説き、
真我そのものの説明については「無記(沈黙)」を貫いたのです。

真我を客体視(観察の対象化)して、あれこれと考えることは、
解脱や悟りを得るための「大きな障害」になるのです。

そして、少し付け加えるならば、

>両者のあいだを0でも1でもないってことでφ(空)と書ける

この時点で、0はすでに概念化されてしまって、
1と「相対の関係」になってしまっています。
0と1を「両者」と見なしてますよね。
つまり0は、二元(相対)を構成する「一要素」になってしまうのです。

そして、「0元と1元を包む」のが「空」なのではなく、
一元の本質が「空(相互依存・無自性・無常)」なのです。
あるいは、0元と1元と名付けた「二元世界」を、
包括するものが「空(一元)」ということになるのです。

>ちなみに無と有は0元と2元

いいえ、このように考えてしまったら、
「無と有のセット」で2元(相対)となってしまうのです。

ですから、表現とその意味合いを考えたとき、
「0に非ずのΦ」という表現は、真の意味での0となり、
「0である」という表現は、真の1(相対を包む一元)を意味してしまうのです。

【初期のウパニシャッドである『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』では、
 「…でない」によってのみ、アートマンが定義されるという。
 その属性を「…である」と定義することはできないという。】

概念化という言葉の罠を避けるためには、
「…ではない(否定)」もしくは、「…でないこともない(否定の否定)」
という表現を使うほかは、それを顕す表現方法が無くなってしまうのです。

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